本願寺太鼓楼 京都観光

本願寺太鼓楼

本願寺太鼓楼

 

 

本願寺太鼓楼とは?(基本データ)

名前
本願寺太鼓楼(ほんがんじたいころう)
エリア
京都駅
ジャンル

新撰組

建立・設立
17世紀中頃の建造(懸魚裏面に「安永(1772-1778年)」年号の墨守)
1862年(文久2年)、江戸幕府が14代将軍・徳川家茂の上洛に際し、将軍警護のため浪士を募集
1863年(文久3年)2月、200名余の浪士たちが「浪士組」として一団を結成し将軍に先がけて上洛
同3月、壬生村の八木邸や前川邸などを屯所として新選組の前身である「壬生浪士組」を結成、京都守護職の会津藩主・松平容保より不逞浪士の取り締まりと市中警備を任される
同年8月、いわゆる「八月十八日の政変」の警備で活躍し「新選組」の隊名を拝命
1864年(元治元年)、「池田屋事件」および「禁門の変」に参加し活躍
1865年(慶応元年)、西本願寺の太鼓楼に屯所を移転
1867年(慶応3年)6月15日、屯所を西本願寺から不動堂村に移転
1868年(慶応4年)、旧幕府軍の一員として戊辰戦争に参加するが鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗北したのをきっかけに解散
アクセス
  • JR「京都」駅下車 中央口より徒歩約15分
  • 近鉄京都線「京都」駅下車 中央口より徒歩約15分
  • 京都市営地下鉄烏丸線「五条」駅下車 徒歩約10分
  • 阪急京都線「大宮」駅下車 徒歩約20分
  • 京福電鉄(嵐電)嵐山本線「四条大宮」駅下車 徒歩約20分
  • 京阪本線「七条」駅下車 徒歩約20分
  • 京都市営バス「西本願寺前」(9・28・75号系統)下車 徒歩約2分
  • 京都市営バス「島原口」(6・18・特18・58・71・特71・206・207号系統)下車 徒歩約5分
  • 京都市営バス「七条堀川」(9・28・33・75・206・208号系統)下車 徒歩約5分
  • 京都バス「大宮五条」(81・83系統)下車 徒歩約12分
  • 京阪バス「大宮五条」(21・21A・27系統)下車 徒歩約12分
駐車場
北境内地駐車場(参拝者用)
拝観料
内部は非公開
お休み
-
拝観時間
-
住所
〒600-8501
京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル(西本願寺境内の北東角)
電話
075-371-5181(西本願寺)
FAX
075-351-1372(西本願寺)
公式サイト
境内と建造物 浄土真宗本願寺派 本願寺(西本願寺)
本願寺 鼓楼 文化遺産オンライン

本願寺太鼓楼の地図

本願寺太鼓楼のみどころ (Point in Check)

京都市下京区新花屋町通堀川西入る門前町、花屋町通と堀川通が交わる交差点の角、本願寺境内の北東隅に建つ重層の楼閣建築。

この点「太鼓楼(鼓楼)」はまだ時計が普及していなかった時代に備え付けの太鼓を使って人々に時刻を報せるるために建造され、同じ役割を担った鐘楼と並んで古来から寺院や廟院の重要な要素となる建物でした。

西本願寺の境内においては江戸初期には境内の南東隅に太鼓を吊るした建物があったといわれ、その後、大火による焼失などを経て、現在の太鼓楼は宝暦年間(1751-64年)に建築されたとも、寛政元年(1789)に建築されたものともいわれているものです。

木造の楼閣で、高さ約15m、内部は三層になっており、広さ約30平方mの最上階内部には、大小2つの太鼓が現存しており、大きい太鼓は直径1.5mあるといいます。
また古い太鼓の方は山科本願寺において使用されていたことが知られており、、胴部がツツジの木で作られたものとして著名で、奈良の西大寺の遺品と伝えられていて、もう一方は建築時に新たに備えられたものだといいます。

この西本願寺の太鼓楼は2014年(平成26年)に国の重要文化財に指定されていますが、老朽化が激しく普段は一般公開されていませんが、特別公開されたことはこれまでに何度かあるようです。

そして太鼓楼は幕末には新選組が屯所として使用していた建物であることから「新選組ゆかりの地」の遺構の一つにも数えられています。

この点、新選組は幕末に江戸幕府に京都守護職を命じられた会津藩主・松平容保の配下として京都の治安維持活動や尊攘派志士の取り締まりにあたった組織で、1867年(慶応3年)に幕臣に取り立てられて以降も勤皇派と激闘を繰り広げ、戊辰戦争の初戦となった鳥羽・伏見の戦いでも旧幕府軍として従軍し、幕府軍の敗戦とともに隊員はまもなく四散。
その後も新政府軍に降伏することなく甲州勝沼にて板垣退助率いる迅衝隊に撃破され敗走し解隊、局長の近藤は捕えられて斬罪に処せられ、また副長の土方歳三も箱館五稜郭の戦いにて戦死し、戊辰戦争の終結とともに姿を消しました。

新選組は1863年(文久3年)に「壬生浪士組」として京都で発足し、当初の隊員数は24名でしたが、その後内部抗争などを経て「新選組」に改められ、1864年(元治元年)に池田屋で謀議中だった長州藩の尊王攘夷派の志士たちを襲撃し御所焼き討ちの計画を未然に防いだいわゆる「池田屋騒動」で一躍名を馳せて以降は、幕府からの支援も厚くなったといい、隊士の数も急増して最盛時には200名を超えていたといいます。

そこで壬生の屯所では狭くなったこともあり、1865年(慶応元年)3月10日、壬生の八木邸と前川邸に置かれていた屯所を西本願寺へと移す運びとなり、北東にあった北集会所と太鼓楼をその屯所と定め、約2年余りにわたって使用され、太鼓楼は見張り台としてその太鼓を隊士らの集合の合図などに利用していたといわれています。

西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で、戦国時代には織田信長と有名な「石山合戦」にて長期にわたって抗争状態が続きましたが、その間に長州を治めていた戦国大名の毛利家は本願寺に兵糧を運び込んで助けていたという歴史的経緯があり、こうした縁から幕末の尊王攘夷運動の最中にあっても長州藩や長州系の志士たちを支援していたといい、池田屋事件に続いて起きた「禁門の変」に際しても新撰組や薩摩、会津藩と戦って敗れた長州藩士を境内に匿ったともいわれています。

このため新選組の西本願寺の境内への屯所の移転は、屯所の手狭さの解消のため広い北集会所に目を付けたというのはもちろん、長州寄りだった西本願寺の動きを牽制し長州系志士たちのつながりを絶とうという一石二鳥の効果を狙ったものだともいわれています。

そのような経緯もあってか、新選組は僧侶や信徒たちの迷惑も顧みず、境内で武芸の稽古はもちろん、本山が行事で鳴らす鐘の音に合わせて大砲を轟かせたり、実弾射撃をおこなったり、あるいは捕縛した勤皇派志士たちを本山境内で拷問したりなどの乱暴狼藉を繰り返して参拝の門信徒や僧侶らを震撼させ、また境内にて食料として豚の飼育も行っていたとも、滋養のため猪鍋(ししなべ)を食したとも伝わっており、仏教で忌まれている肉食も大っぴらに行われたといい、傍若無人なふるまいを続ける新選組は、本願寺にとってはむしろ迷惑な存在であり、決して歓迎されるものではありませんでした。

新選組はこの後、2年3か月あまりの後の1867年(慶応3年)6月に西本願寺からほど近い不動堂村へと屯所を移転していますが、これは一刻も早く立ち退かせようとと、本願寺側が新選組のための新たな屯所を建設する費用を負担してまで退去を要請したものだったといわれています。

もっとも明治維新を迎えるまでに新選組メンバーの大部分が命を落とす中、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争を生き抜いた結成時からの隊士の一人・島田魁(しまださきがけ 1828-1900)は、明治維新後の1886年(明治19年)に西本願寺の守衛となり、亡き隊士たちの菩提を弔うためか、終生念仏を唱えながら太鼓番を務めたという話が伝わっています。

ちなみに西本願寺にある新選組の遺構のうち「北集会所」は新撰組の退去後にそのままにしておきたくなかったためか本山で解体され、禁門の変で焼失した学林の講堂への転用も考えたものの、学林が新築を望んだことから部材がそのまま保管された後、当時本堂を焼失していた兵庫県姫路市の本徳寺(亀山御坊)の要望で1873年(明治6年)に移築されており、現在も本堂として現存しています。

このため現在の西本願寺の境内において新選組の足跡を見ることができるものは太鼓楼だけとなっています。

本願寺太鼓楼の施設案内

 

境内

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    太鼓楼

     

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    「太鼓楼 重要文化財 ※指定名称 鼓楼」の駒札

     

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    「太鼓楼~新選組ゆかりの地」の説明版

     

周辺

関連

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    亀山御坊本徳寺 本堂

    兵庫県姫路市亀山324
    山陽電鉄亀山駅から徒歩約5分
    浄土真宗本願寺派の寺院本徳寺(亀山御坊)の境内にある
    元々はは本山である西本願寺の境内にて阿弥陀堂の北隣に立っていた「北集会所(しゅうえしょ)」で、1873年(明治6年)に本徳寺へ移築され本堂とされた
    以前の本堂は安政の大地震(1854-55)で損壊し、4年後に再建に乗り出したが、完成間近の1868(明治元年)に大工小屋から出火し焼失
    このため2年間屯所として使用した新選組の退去後に本山で解体されて保管中だった北集会所を下げ渡すよう要望、本徳寺の事情を憂慮した西本願寺により本堂として譲り渡すことが決定
    1871年(明治4年)に京都から淀川を下り、瀬戸内海を通って姫路に至る水路で部材を運搬し、約2年かけて組み立てられた
    この点、本願寺の北集会所の建立については詳しい事はわかっていないものの、本願寺の史料では仮御堂として使われ江戸後期の1792年(寛政4年)には存在していたという
    西本願寺の伽藍を構成する主要な建築であり、かつ江戸後期の京都における浄土真宗の大規模な仏堂の一つであり、移築の際には増改築を行わずそのままで建てられたことから西本願寺の伽藍の変遷を知る上でも貴重な遺構となっている
    このように様式的にも近世の真宗寺院の景観を維持しており、また外陣が200畳あるなど播州地域で最大級の仏堂であり、18世紀を代表する優れた建築として1984年(昭和59年)に市指定、1990年(平成2年)には県指定文化財に指定された
    また北集会所は移築前の1865年(慶応元年)から2年余り新撰組の屯所になったという記録が「明如上人伝」「本願寺史」に残っており、それを示すように巨大な本堂の瓦葺き屋根を支える立派な柱のうち、北側の2本にはザックリと斜めに刻まれた新選組による刀傷と思われる傷痕が数か所残っているという
    上記のような歴史的事実もあることから2004年(平成16年)の)NHK大河ドラマ「新選組!」の撮影も行われた

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    壬生寺

     

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    八木家

     

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    旧前川邸

     

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    不動堂村屯所跡

     

本願寺太鼓楼の主な年間行事・カレンダー

年中行事

 
 

 

月並行事

 
 

 

花ごよみ

 
 

 

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