興正寺
興正寺とは?(基本データ)
- 名前
- 興正寺(こうしょうじ)
- エリア
- 京都駅
- ジャンル
- 建立・設立
- 伝・1212年(建暦2年)「興隆正法寺」として創建
1321年(元亨元年)頃、山科から東山渋谷に移転し「阿弥陀佛光寺」となる
文明年間(1469-87)、佛光寺から分かれる形で山科に興正寺が再建され、本願寺の脇門跡となる
1876年(明治9年)、興正派本山として独立 - 創始者
- [開基] 伝・親鸞(しんらん)
[開基] 第7世了源(りょうげん)
[再興] 第14世・蓮教(経豪)(れんきょう)
[中興] 第27世本寂(ほんじゃく) - 宗派
- 浄土真宗興正派本山
- 山号
- 円頓山(えんとんざん)
- 本尊
- 阿弥陀如来
- 寺紋
- 抱牡丹紋
- アクセス
- 駐車場
- 自家用車数台(無料)
- 拝観料
- 境内自由・無料
- お休み
- 無休(案内は要事前申込)
- 拝観時間
- 6:00~17:00
受付は9:00~16:00 - 住所
- 〒600-8261
京都府京都市下京区堀川通七条上ル花園町70 - 電話
- 075-371-0075
- FAX
- 075-371-8509
- 公式サイト
- 本山興正寺
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下京区・区民の誇りの木 京都市情報館
興正寺の地図
興正寺のみどころ (Point in Check)
京都市下京区堀川通七条上ル花園町、世界遺産・西本願寺の南隣、七条堀川の交差点北西にある親鸞(しんらん 1173-1262)を宗祖とする浄土真宗真宗興正派の本山。
山号は円頓山(えんとんざん)、本尊は阿弥陀如来。
鎌倉初期の1206年(建永元年)12月、浄土宗の開祖・法然(ほうねん 1133-1212)の弟子であった住蓮(じゅうれん ?-1207)と安楽(あんらく ?-1207)の説法に感銘を受けた第82代・後鳥羽上皇(ごとばじょうこう 1180-1239)の女官2名が上皇が紀州熊野に参拝の留守中に密かに出家し尼僧となったことを知った後鳥羽上皇が激怒し、翌1207年(建永2年)2月に住蓮および安楽を死罪にするとともに、法然が讃岐へ配流となった「建永の法難(承元の法難)(けんえいのほうなん)」の際、親鸞もまた越後(新潟県)へ配流となりましたが、1211年(建暦元年)に勅免を受けて翌1212年(建暦2年)に京都へと一時帰洛、その際に再出発のため高弟・源海が山科の地に結んだ草庵が起源とされています。
この点、創建当初は日本に仏教を広めた聖徳太子(しょうとくたいし 574-622)の事績にちなみ「正しき法を興し、さかえさす」、すなわち正法を興隆するとの願いを込めて第84代・順徳天皇(じゅんとくてんのう 1197-1242)により「興隆正法寺」と号したと伝えられています。
その後、鎌倉後期の1320年(元応2年)に第7世・了源(りょうげん 1295-1336)が寺基を山科から東山渋谷(現在の京都国立博物館付近)へと移して中興。
この点、親鸞在世の当時に真宗の教えは関東を中心に広がっていましたが、了源の代になると西日本一帯の布教活動に力を入れ、当時は同じ浄土真宗の本願寺を上回る程の隆盛を極めていたといいます。
そして1335年(建武2年)に本尊・阿弥陀如来像が盗難に遭うという事件が発生した際、時の天皇であった第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう 1288-1339)の夢の中に盗難された阿弥陀如来像の瑞光が現れ、その光をたどってご本尊を取り戻すことができたといい、これにより後醍醐天皇から「阿弥陀佛光寺」の寺号を賜りました。
室町時代の文明年間(1469-87)、佛光寺第14世・経豪は本願寺8世・蓮如(れんにょ 1415-99)に帰依し、名を蓮教(れんきょう 1451-92)に改めるとともに、佛光寺を弟・教誉に譲った上で再び山科西野の地に一宇を建立し、旧称である「興正寺(興隆正法寺)」と号します。
この際に仏光寺門徒の大半を伴って本願寺に帰参したことから本願寺教団拡大の基を作ったともいわれていて、その後は本願寺と歩調を合わせることとなり、1532年(天文元年)8月に法華衆徒らに焼かれた際には大坂天満に移転するなど、本願寺の度重なる移転に際しても常に行動を同じくすることとなります。
そして1591年(天正19年)、第17世・顕尊(1564-99)の時代に、興正寺は本願寺とともに現在の京都堀川七条の地、本願寺の南隣へと寺基を移転し、以後は江戸時代を通じて東西分派した後の西本願寺の脇門跡でした。
もっとも興隆正法の実を挙げるべく本山として独立しようとする気運も根強かったといい、明治時代に入った1876年(明治9年)、第27世・本寂(ほんじゃく 1808-77)の時代に興正派本山として独立を果たし現在に至っています。
現在の伽藍は焼失を免れた1774年(安永3年)建立の「鐘楼」や1848年(嘉永元年)建立の「経蔵」を除き、1902年(明治35年)に発生した火災によって、日光東照宮本廟、知恩院三門とともに「日本三建築」ともいわれたいわゆる「ひとつ御堂」と称せられた本堂をはじめほとんどの堂舎を失った後に復興されたもので、1912年(明治45年)に「御影堂」、1915年(大正4年)に「阿弥陀堂」が再建されています。
興正寺の施設案内
境内
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阿弥陀堂門
1912年(明治45年)の再建
阿弥陀堂の正面に位置する興正寺の正門
本堂前にふさわしい四脚門の格調高い様式で門扉に牡丹唐草、柱に龍の彫刻を施す
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手水舎
1912年(明治45年)の再建
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阿弥陀堂(あみだどう)
1915年(大正4年)の再建
中央に本尊・阿弥陀如来像、左右にインド・中国・日本の七高僧と聖徳太子の影像を安置
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経蔵(きょうぞう)
1848年(嘉永元年)の建立で、建立当初の位置が唯一変わっていない貴重な建築物という
初層は唐破風付白壁土蔵造、二層は唐破風付楼造、屋根は宝形造で、中に経・律・論の全てを収録した一切経が納められている
「法宝蔵」の勅額は孝明天皇より下賜され、額字は右大臣・近衛忠煕の筆で、経蔵に勅額の下賜されたのは異例のことだという
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クスノキ
境内北側
高さ19.5m、幹周3.4mで下京区の「区民誇りの木」に選定
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三門
1912年(明治45年)の建立
御影堂の前に位置する2階建の楼門
三門は空・無相・無願を経て涅槃に至る三解脱門を表す
門扉には牡丹唐草に抱牡丹紋の彫刻を施す
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寺号標
山門手前右
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御影堂(ごえいどう)
1912年(明治45年)の再建
幅33m、奥行き41m、高さ28m
中央に親鸞聖人40歳の姿と伝えられる木造、左右に興正寺歴代の御影、九字名号、十字名号を安置
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渡り廊下
御影堂と阿弥陀堂をつなぐ
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宗務所
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鐘楼
境内東南隅にある
1774年(安永3年)の建造で、桃園天皇の13回忌に際して皇太后・恭礼門院(一条富子)から梵鐘とともに寄進さたもの
経蔵とともに1902年(明治35年)の火災を免れ、当時の様子を今に伝える
本瓦葺入母屋造の袴腰楼造、梵鐘は直径約1m
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エノキ
高さ15.5m、幹周2.74mで、下京区の「区民誇りの木」に選定
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興正会館(こうしょうかいかん)
地上3階、地下1階で、宿泊施設の外に研修室、会議室、和洋兼用ホールがあり、参拝者の歓談の場として利用されている
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婦人会館
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表対面所(おもてたいめんしょ)
通常非公開
御影堂の西側に位置し、「報恩講」の際にはこの場所でお斎が頂ける
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奥対面所
通常非公開
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研修ホール
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周辺
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堀川通
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七条堀川交差点
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関連
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霊山本廟
京都市東山区清閑寺霊山町4、東山の産寧坂(三年坂)の途中に入口がある
浄土真宗興正派の本廟として1876年(明治9年)に建立
宗祖・親鸞聖人の廟堂および歴代ご門主の墓所とともに、宗派の納骨所となっている
本廟内には本堂や本廟、納骨堂、鐘楼のほか、親鸞聖人の銅像や法然上人の別時念仏碑などがある
梅や紅葉の隠れた名所でもある
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興正寺の主な年間行事・カレンダー
年中行事
- 1/1~1/3
修正会
- 1/25
法然上人祥月
- 2/22
聖徳太子祥月
- 3月春分の日とその前後3日間
春季彼岸会
- 4月中
春の法要
お釈迦様の誕生日を祝う「花まつり」および宗祖である「親鸞聖人御誕生会」の法要が行われる
- 7/14・15
孟蘭盆会
- 9/12
順徳天皇聖忌
- 9月秋分の日とその前後3日間
秋季彼岸会
- 11/21~11/28
報恩講
- 12/31
除夜会・除夜の鐘
月並行事
- 毎日
晨朝(朝のお勤め)
8:00
- 毎月12日
第27世本寂上人月忌
祥月命日12月12日
- 毎月12日
由緒皇室忌
- 毎月22日
ご歴代門主月忌
- 毎月28日
宗祖親鸞聖人月忌
祥月命日11月28日