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鬱金香(チューリップ)(Tulip)

鬱金香(チューリップ)

鬱金香とは?

赤白黄色の歌詞でもおなじみ、子供たちにも大人気の春を代表する花

DATA

学名は「Tulipa Gesneriana(トゥーリパ・ゲスネリアーナ)」、英名は「Tulip」。
ユリ科チューリップ属の多年草の球根植物。
3月下~5月上旬にかけて花を咲かせる、花びらの形は先端が丸いもの・尖ったもの・フリル状のものがあり、咲き方は一重のほか八重咲きもある、花の色は童謡「チューリップ」でお馴染みの赤白黄のほかオレンジ、ピンク、紫や複色など様々だがバラ同様に青色はない。
地中海沿岸のトルコから中央アジアにかけた地域が原産。
150種の原種の他に5000種ともいわれる多数の園芸種(Tulipa属全般)があり、日本で一般に栽培されているのは「ゲスネリアナ種(Tulipa gesneriana)」。
生産地としては各国へ輸出も行うオランダが最も有名、日本では富山県と新潟県で球根生産の国内シェアのほぼ100%を占める。
「ゲスネリアナ種」はヨーロッパに持ち込まれた改良種で、野生のゲスネリアナ種は無いとされている(元になった原種についてもよく分かっていない)。
高さは60cm~1m。

名前の由来

「Tulip(チューリップ)」の名は、1554年にチューリップをヨーロッパへ伝えたオーストリア大公国のトルコ駐在大使A・G・ブズベックが、コンスタンティノープル付近で初めてチューリップを見かけた際、トルコ人通訳から聞かされたトルコでターバンを意味する「Tulipant(テュルバン)」を花の名前と勘違いし、これが誤って伝わったといわれている。

大使は花の名前を尋ねたにもかかわらず、トルコ人通訳は花の形を聞いているのだと勘違いし自分が頭に巻いていた中東ではおなじみの被り物ターバンに似ていると答えたのだという。

漢字名の「鬱金香(うっこんこう)」は、江戸末期に日本にもたらされた当初薬草として知られるウコンの仲間と勘違いされていたため(中国では「郁金香」で鬱金香は本来ウコンないしサフランを指す言葉)。

学名「Gesneriana」はチューリップについての記述を残した博物学者コンラート・ゲスナー(ゲスネル)(Conrad Gesner)の名にちなむ。

歴史

「チューリップ」というとチューリップと風車の情景からオランダをまず思い浮かべる人も多いと思われるが、元々の原産はトルコといわれ、16世紀にトルコからヨーロッパへと伝来し、17世紀にはチューリップが大ブームとなりオランダやイギリスで品種改良が進んだ。そして日本に伝わったのは19世紀幕末近くのことだという。

原産地はトルコ

原産地は現在のトルコ東部のアジア部分(小アジア)を形成するアナトリア地方といわれ、6世紀末には栽培されていたという記録が残る。

その後トルコでは1299年のオスマン1世による建国から第一次世界大戦後の1922年にトルコ革命により滅亡するまでオスマン帝国の時代が続くが、その当時から宮廷の庭園で大事に育てられ、宮殿やモスクなどの壁画のモチーフにとしても描かれていたという。

ヨーロッパへの伝来

そのオスマン帝国が西アジアから北アフリカ、中央ヨーロッパのバルカン半島までを制圧し最盛期を迎えたのは16世紀のスレイマン1世(在位1520-1566年)の時だが、ちょうどまさにその頃にチューリップはヨーロッパへと伝わることとなる。

チューリップをヨーロッパに紹介したのは現在のオーストリア共和国の前身で当時は神聖ローマ帝国の領邦の一つだったオーストリア大公国のトルコ駐在大使A・G・ブズベック(A. G. Busbecq)といわれており、彼が1554年にコンスタンティノープル付近で出会ったチューリップの球根や種子をウィーンに持ち帰ったのが最初といわれている。

その後1561年に博物学者コンラート・ゲスナー(ゲスネル)が発表した著書に西ヨーロッパに咲くチューリップについての初めての記載を残しており、この頃にはヨーロッパでも園芸種の栽培がはじまっていたことが窺い知れる。

オランダへの伝来

伝播の時期ははっきりしないが、フランスの植物学者カロルス・クルシウス(Carolus Clusius)がウィーンの薬園に勤めた後、1593年にオランダのライデン大学の教授に任命され、チューリップの品種改良や栽培を行ってその普及に努め、今日のオランダのチューリップ産業の基礎を築いたといわれている。

チューリップ狂時代(チューリップ・バブル)

17世紀に入るとチューリップはイギリスやフランスなどでも栽培されるようになり、ヨーロッパの上流階級の間で異常な人気を集めるようになる。

その結果1634年頃から投機家たちが金儲け目的でチューリップ投資に参入、花のみならず珍しい品種を中心に球根の値段までもが釣り上がり、信じられないような高値で取引されるようになった。中には球根1個と工場が交換されたという記録も残っているという。

しかし異常な過熱ぶり見せたものの1637年2月に価格崩壊により一気に100分の1以下にまで下落しあっという間に鎮静化、巨万の富を得る者がいる一方で破産する者も続出しヨーロッパ経済を大混乱に陥れた。

世界最初のバブル経済事件ともいわれ、歴史的大事件の一つとしてフランスの小説家アレクサンドル・デュマの小説「黒いチューリップ」にも描かれている。

現代

18世紀に再度チューリップ狂時代が到来したものの、19世紀には球根の生産量も増えたことで一般庶民でも手の届く庶民の花となり、現在も観賞用として数多くの園芸品種が生み出されている。

日本のチューリップの歴史(富山県と新潟県で栽培)

日本にチューリップが紹介されたのは江戸末期1863年(文久3年)のことでフランスからヒアシンスとともに伝わり、当初は高級品で数も少なく一部の上流階級や外国人が栽培や鑑賞を楽しんでいた。
しかし太平洋側の気候がチューリップ栽培に適していなかったこともあり、それほど広がることはなかったという。

日本で本格的な生産がはじまったのは大正時代に入ってからのことで、日本海側の降雪地帯が冬に適度な湿度を保ちかつ気温の変動が少ないというチューリップ栽培に最も適した気候であることが判り、秋に収穫する米の裏作として富山・新潟の両県で生産がはじめられたことがきっかけとされる。

富山県では1918年(大正7年)に東砺波郡庄下村(現砺波市)で水野豊造により栽培が試みられ、新潟県では小合村(現在は新潟市秋葉区の一部)で1919年(大正8年)に日本で最初のチューリップ球根の商業栽培がはじめられたといい、「道の駅・花夢里にいつ」には「日本チューリップ発祥の地」の記念碑も建っている。

現在においてもチューリップの球根生産量は富山県が1位、新潟県が2位で両者で全国のほぼ100%近くを占め、両県ともにチューリップが県の花になっている。

童謡「チューリップ」の歌

「さいたさいたチューリップの花が ならんだならんだ赤白黄色」の歌詞で日本人なら誰でも知っている童謡「チューリップ」は1930年代初頭に作られた。

作詞は近藤宮子、作曲は井上武士で、近藤宮子は同じく有名な童謡「こいのぼり」の作詞者でもある。

利用・用途

現代

現在は日本の春の代表的な花の一つで、観賞用として学校や幼稚園、公園などの花壇や鉢植え、切り花などで人気を集める。

食用

オランダでは食用として専用の品種の栽培も盛んであり、サラダや菓子の添え物などに用いられる。
ただし通常の品種は灰汁も多くツリピンという毒性も含まれるため、食用には適さない。

よく似た植物

「アマナ(甘菜)」

学名は「Amana Edulis」。
ユリ科アマナ属の多年草。
早春に白い花を咲かせる小型の花で、チューリップによく似ているためかつてはチューリップ属に入れられていた。

京都の鬱金香スポット

寺社名 エリア ポイント
京都府立植物園 京都府立植物園 北山・上賀茂 正門花壇や洋風庭園の植物園会館前、バラ園の東など計5か所に80種4万個
正門花壇では桜を背景に、また北山門近くの北山球根ガーデンには5品種9千本が植えられ、ハート型や波状のレイアウトが実に印象的
宇治市植物公園 宇治市植物公園 宇治 約100品種1万個のチューリップが園内の至る所で見られる
見頃の時期に開催される「スプリングフェスタ」では園内にこいのぼり200匹が揚げられ親子連れを楽しませてくれる
NO IMAGE 越浜海水浴場   宮津市、青く透き通る越浜の海と10万球のチューリップのコントラストが見事
花まつりは2008年以降中止となっている

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