笠置寺 京都観光

笠置寺

笠置寺

 

 

笠置寺とは?(基本データ)

名前
笠置寺(かさぎでら)
エリア
笠置
ジャンル

寺社 史跡 名勝 紅葉

建立・設立
天平時代(730-50年頃)
創始者
[開基] 伝・大海人皇子(天武天皇)または大友皇子
[開基] 良弁(ろうべん)・実忠(じっちゅう)
[中興] 解脱上人貞慶(じょうけい)
宗派
真言宗智山派
山号
鹿鷺山(しかさぎざん)
本尊
弥勒磨崖仏
寺紋
龍の丸
札所等
京都南山城古寺の会 第10番
アクセス
  • JR関西本線「笠置」駅下車 徒歩約45分
駐車場
あり(1台500円)
拝観料
大人 300円
中学生以下 100円
お休み
無休
拝観時間
夏期 8:30~17:00
冬期 9:00~16:00
住所
〒619-1303
京都府相楽郡笠置町笠置笠置山29
電話
0743-95-2848
FAX
0743-95-2848
公式サイト
笠置寺 巨石と雲海の山
笠置の山寺から
山寺の和尚さん@笠置寺 Twitter
鹿鷺山笠置寺 Facebook
Keisyou Kobayashi Instagram
ぜひ立ち寄りたい笠置寺 笠置町
笠置寺 南山城の古寺巡礼 京都南山城古寺の会

笠置寺の地図

笠置寺のみどころ (Point in Check)

京都府相楽郡笠置町笠置、京都府南部の京都と奈良の県境にあり、花崗岩の巨岩が数多く点在し、古くから山岳信仰・巨石信仰の対象とされてきた笠置山の山上にある山岳寺院。
当初は法相宗に属していましたが、現在は真言宗智山派の寺院で、山号は鹿鷺山(しかさぎざん/ろくろうざん)、本尊は弥勒磨崖仏。

寺の起源については古く、笠置山の中心をなす大岩石の前から弥生時代の有樋式石剣が発見されていることからも、2000年前から笠置山の巨石が信仰の対象とされていたと考えられています。

また「笠置寺縁起」によれば、第38代・天智天皇の時代、天皇の弟で「壬申の乱」で勝利した側の大海人皇子(後の第40代・天武天皇(てんむてんのう ?-686))がある日この付近に狩猟に訪れた際、獲物を追うことに夢中になり過ぎて山頂の巨岩の上まで駆け上がってしまい、岸壁から転落する危機に直面。
進退きわまった皇子は弥勒に祈念して難を逃れますが、感謝の意を示すために巨岩に弥勒像を彫り上げ、伽藍を建立したのが寺のはじまりといわれています。

またいったんは都に戻ることとなった皇子が、山を去る際に目印にと岩の上に笠を置いて帰ったことからその岩を「笠置石(かさぎいし)」、そして後日再び山を訪れて笠を探していた際、上空に舞う一羽の白鷺に導かれて笠の置かれた岩に到着することができたことから山を「鹿鷺山(かさぎやま)」と称するようになり、現在の「笠置山」の地名の由来になったといわれています。

また開創については「今昔物語集」「東大寺要録」などは天智天皇の皇子によると伝えていて、天智天皇の第1皇子で「壬申の乱」で敗北して自害した大友皇子(おおとものおうじ 648-72)(第39代・弘文天皇)ともいわれていますが、確かなことは分かっていないといいます。

実際に建物が建てられ人が住み着いたと考えられるのは約1300年ほど前の奈良時代の頃で、東大寺の実忠(じっちゅう)やその師である良弁(ろうべん)によって笠置山の大岩石の表面に直接彫刻が施された仏像、いわゆる磨崖仏(まがいぶつ)を中心として寺の形容が整えられ、笠置山全体を一大修験行場として栄えたとみられていて、現在も山上には「弥勒石(みろく)」「文殊石(もんじゅ)」「薬師石(やくし)」「虚空蔵石(こくうぞう)」などの巨大な磨崖仏が残され、実際の調査でも弥勒磨崖仏は奈良時代の中頃から末頃には彫られていたことが分かっているといいます。

笠置寺は磐座信仰と仏教思想が一体となり、この笠置山の自然の岩壁に直接彫り込まれた磨崖仏の巨大な弥勒仏を本尊とする寺院で、とりわけ平安後期、1052年(永承7年)以後に訪れる末法思想の流行に伴う「弥勒信仰」の隆盛によりその聖地として栄え、鎌倉時代までは天皇や公家をはじめとして「笠置詣で」が盛んに行われて白河法皇も行幸したほか、清少納言の「枕草子」でも紹介されているといいます。

また鎌倉初期の1193年(建久4年)頃には信西(藤原通憲)の孫で、若くして興福寺の僧侶としての栄達の道を進むも、旧仏教の腐敗堕落に憤慨して南都を離れ、戒律を厳守する宗教改革を提唱して法相宗の中興と称された解脱上人貞慶(じょうけい 1155-1213)がこの地に隠遁し、諸堂を建立して再興の後は、その中心道場となり全盛を極めます。

その後、鎌倉末期の1331年(元弘元年)に起きた鎌倉幕府の倒幕計画「元弘の変」にて後醍醐天皇がこの寺に遷幸してその行在所(あんざいしょ)である「行宮(あんぐう)」とし、鎌倉幕府の大軍と戦いますが、1か月の攻防の後に全山が焼失。

その後室町時代に復興されるも、江戸中期には荒廃して明治初年には無住の寺となったといいますが、1876年(明治9年)に丈英が狐狸の住む荒れ寺に住して20年の歳月をかけて復興に尽くし、現在の姿になったといいます。

現在も笠置山の山頂付近には高さ約15mの日本最古ともいわれる弥勒石や虚空蔵石、文殊石、薬師石の大磨崖仏をはじめ、太鼓石や貝吹岩、ゆるぎ石などの巨岩・奇石が数多く点在するとともに、胎内くぐりなどの行場が数多く姿を残しており、奈良時代より山伏の修行場として栄えていた頃と変わらず信仰の対象となっていて、また境内には東大寺の二月堂で行われる「お水取り」の起源といわれる本堂「正月堂」などの伽藍のほか、かつて後醍醐天皇が行在所を置いた笠置山には当時を偲ぶ史跡も数多く残されています。

その一方で標高289mの山域はアラカシやクヌギ、アオキなどが自生するなどほぼ全山が広葉樹に覆われており、1932年(昭和7年)の国による「史跡・名勝」の指定を受け、笠置山と山麓を流れる木津川の峡谷を中心た一帯は1964年(昭和39年)に「京都府立笠置山自然公園」となり、また「京都の自然200選」にも選定されています。

これを受けて現在では気軽に「行場めぐり」に挑戦できるよう約800mの遊歩道として整備されていて、小学生から年輩の方まで幅広い年齢層に人気のハイキングコースにもなっています。

この他にも自然公園内の「もみじ公園」を中心に境内の各所にて美しい紅葉のグラデーションが楽しめるほか、毎年11月の1か月間はもみじのライトアップも行われる紅葉の名所としても有名で、また山麓の木津川の河原に数多く植えられた桜が京都では4か所しか入っていない「日本さくら名所100選」にも選ばれているなど桜の名所としても知られていて、笠置の町は春の桜や秋の紅葉シーズンにはとりわけ多くの行楽客で賑わいます。

笠置寺の施設案内

 

境内

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    笠置山自然公園入口ゲート

     

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    東海自然歩道の入口の石段

     

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    東海自然歩道の坂道(旧登山道・史の道コース)

     

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    庚申堂

     

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    東海自然歩道の坂道(旧登山道・史の道コース)

     

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    一般道へ合流

    東海自然歩道から一般道へと出る
    合流地点には「一の木戸跡」の案内板が立てられている

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    東海自然歩道の分岐

    ここから再び東海自然歩道の山道へと通じるが、笠置寺の山門へは一般道を進む

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    駐車場・トイレ

     

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    笠やん終焉の地

    駐車場の入口に石像

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    石段

    入口に「東海自然報道の説明板と史跡・名勝 笠置山」「府立笠置山自然公園御利用の皆様へ」の案内板
    すぐ左側に料理旅館・松本亭の入口がある

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    山門

     

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    「天武天皇勅願所 後醍醐天皇行在所 笠置山寺」の寺号標

    山門左

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    笠置山寺縁起

    山門右

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    笠置型燈籠

    くぐって正面に置かれ、左側へと参道が続いている
    平安時代、笠置寺参道に建てられていたと伝えられているが、辞書等に記述があるだけで現存するものは1基もなく、資料も残っていない「幻の笠置型燈籠」といわれていた
    この歴史的財産を後世に伝えるため、インターネットで全国に資料を求めたところ、愛知県岡崎市の石材業者の組合が大正時代に発行した本に、形式や寸法が記載されていたことが分かり、今回復元した

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    本尊仏香爐

    奈良時代我が国最古最大、御丈20m大磨崖仏宝前の香爐である
    この香爐、大きさから見て本尊・弥勒磨崖仏がいかに大きいか想像できるであろう
    室町期のものであるが、江戸期に手洗鉢に転用したのである

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    参道

     

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    笠置寺本坊の門

    笠置寺山内49院の一子院・旧福寿院である
    全盛期の平安時代、笠置山には49院の子院があったが、時代と共に衰微、特に元弘の戦乱・安政の大地震等で江戸末期には、福寿院、多門院、文殊院、知足院の4子院が無住のまま残された
    1876年(明治9年)に大倉丈英和尚により福寿院を笠置寺本坊とし、文殊院、知足院は取り壊し、多門院は本堂を毘沙門堂として残された
    創建より明治に至るまで山内49院を総称して笠置寺と称し、笠置寺なる建物はなかった

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    解脱鐘(鐘楼)

    蓮の花をイメージし鐘の基底部が6つに切り込まれた意匠は、日本に一つしかなく、銘文も刻まれており国の重要文化財
    中国の形式を持った鐘で、1196年(建久7年)、東大寺俊乗防重源和尚の作である
    当時日本の宗教改革者といわれた笠置寺の解脱上人に、重源和尚はこの鐘と中国より持ち帰った紺紙金泥の大般若経600巻を寄進された
    しかし大般若経およびそれを納めた六角堂、鐘楼は元鳳の戦乱で焼亡したが、幸いに梵鐘は残ったものである

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    史蹟及名勝笠置山の石標

     

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    収蔵庫

    十一面観音像(藤原時代)のほか、弥生時代の有樋式石剣、インド伝来の銅像「銅製釈迦誕生仏」や平安時代の経筒など貴重な文化財が展示されている

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    境内図

     

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    鎮守社(春日明神社・椿本護王宮)

    椿本護王宮は笠置寺一山50か寺の総鎮守社である
    908年(延喜8年)に吉野金峯山より勧請された
    1331年の元弘戦で焼亡後の社殿で、様式からみて桃山時代の建築で、豊臣氏が社寺再興に用いた手法が各所に見られる
    寺蔵文書は未発見ではあるが、おそらく本堂とともに豊臣氏の再興の可能性が高い

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    拝観受付

     

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    行場巡り入口

     

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    手洗所

     

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    参道

     

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    大師像

    大師堂へと上がる石段の手前左

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    笠やん追悼の碑

    大師像の左

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    参道の橋

     

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    正月堂(本堂)

    笠置寺本尊・弥勒大磨崖仏の礼拝堂である
    またの名を正月堂という
    752年(天平勝宝4年)、東大寺実忠和尚が千手窟で修行の折に感得された十一面観音を祀る
    現在、奈良東大寺の二月堂で営まれる「お水取り」は、第1回目はこの正月堂で営まれたものであり、東大寺「お水取り」発祥の地とされている
    創立の建物は元弘の戦で焼失したが、室町時代に東大寺の貞盛和尚により復興されたのがこの建物である

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    本尊弥勒大磨崖仏(弥勒石)

    高さ15mの壁面に刻まれた笠置寺本尊仏である
    古来より664年作の天人彫刻50尺の仏といわれているが、調査の結果では奈良時代中期には彫刻されていたようで、天人とは中国大陸から来た人たちのようである
    磨崖仏前の礼堂が創建から三度火災に遭い、その都度本尊・磨崖仏も火を浴び、彫刻された表面は焼け崩れてしまった
    しかし2010年(平成22年)秋、特殊カメラとその技術で残った線を探した所、いたる所から最初の彫刻線が見つかり、その線をつなぎ合わせ完成されたのが堂内の画像で、1300年前の本尊50尺の弥勒磨崖仏のお姿である

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    薬師石と文殊石

    十三重石塔の背後

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    十三重石塔

    鎌倉時代の作で重要文化財指定
    現存する石塔は、元弘戦における戦死者の供養塔とも、貞慶上人が母のために建てた供養塔であるとも伝えられている
    元来この場所には、1196年(建久7年)に貞慶上人によって木造瓦葺きの十三重塔が建立されていたが、1331年(元弘元年)の後醍醐天皇の「元弘の戦乱」によって焼亡してしまった

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    笠置石

    第40代・天武天皇が皇子の頃、鹿を追って狩の途中、この岩上で進退きわまり、仏を祈念して難を逃れられたので、後日の目印として笠を置かれたという伝説がある
    笠置町の町名の発祥の石である

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    千手窟

    1200年来、笠置寺の修行場であり二月堂のお水取りの行法も実忠和尚がこの修行場で行中感得されたものである
    東大寺大仏殿建立の用材は木津川を利用し奈良へ送る計画を立てたが、日照り続きで水量少なく計画どおり大仏殿の建立が危うくなった時、実忠和尚がこの場で雨乞いの修法を行い大雨を降らせ予定どおり大仏殿を完成させたという
    この故事から以後、大仏殿の修理の折には必ずこの場で無事完成を願っての祈願法要が執り行われたという

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    伝虚空蔵菩薩磨崖仏(虚空蔵石)

    寺伝では弘仁年間(810-24)に弘法大師がこの石にのぼり、求聞寺法を修し一夜にして彫刻せし虚空蔵菩薩といわれる
    彫刻の様式から中国山西省雲南の磨崖仏に相通じるものがあるところから、本尊・弥勒磨崖仏と同様、奈良時代の渡来人の作と考えられる
    周囲に建造物がなかったため、元弘の戦の戦火も免れ、今日までその姿を拝むことができる
    12mの岩肌に9mの仏が刻まれており、先年、拓本にとり8m×10mの大掛軸ができた
    おそらく拓本の掛軸としては最大であろう

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    胎内くぐり

    笠置山修行場の入口にあり、行場入りする前に滝で身を清めるのが普通であるが、当山は滝がないためこの岩をくぐり抜けることにより身を清めたという
    安政地震で天井岩が落下、以後切り石の天井となった

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    太鼓石

     

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    ゆるぎ石

    1331年(元弘元年)9月28日、後醍醐天皇が鎌倉幕府の奇襲を受けたところである
    この石は奇襲に備えるため武器としてここに運ばれたが使用されなかった
    重心が中央にあり人の力で動くため「ゆるぎ石」といわれている

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    平等石

     

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    平等石からの木津川の眺望

     

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    蟻の戸わたり

    平等石下のトンネル

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    二の丸跡

    「太平記」には「笠置の城は山高くして…」と書かれているが、後醍醐天皇の仮皇居であり正式な築城はされなかった
    しかし室町時代以降、山頂行在所跡を本丸と見立てたのか、一段下のこの広場を二の丸跡と呼ぶようになった
    休憩小屋があるほか、山上から木津川下流方面の眺めが楽しめる

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    貝吹き石

    1331年の元弘の戦の折、勤王軍の武士の士気を高めるため、この岩上より盛んにほら貝が吹かれたといわれている
    また修験者もこの岩の上でほら貝を拭いたといわれている

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    天文三年阿弥陀磨崖仏

     

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    皇居跡入口と石段

     

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    後醍醐天皇行在所跡

    標高290mの笠置山山頂にあり、1331年(元弘元年)8月27日に政治改革に失敗され、京都御所を出られた後醍醐天皇を受け入れた場所
    京の都を追われた後醍醐天皇はこの地に三種の神器とともに行幸され、この地が南朝の皇居となった
    天皇方2500、笠置山に向かって北条方75000と伝わる大軍を相手に攻防1か月、ついに9月28日夜半、風雨を見方にした北条方50名の決死隊により奇襲攻撃を受け、大磨崖仏をはじめ笠置寺山内49か寺すべて灰塵に帰してしまった

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    後醍醐天皇御製

    後醍醐天皇はこの地にて「うかりける 身を秋風に さそわれて おもわぬ山の 紅葉をぞ見る」と詠んだという

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    もみじ公園

    室町時代の1410年頃に宝蔵坊跡にもみじの木々が植樹され、現在は公園となっている
    笠置山上に位置し、1300年の歴史を持つ笠置寺境内にある「もみじ公園」では、時期になると鮮やかに敷き詰められた落ち葉と共に真っ赤に染められた紅葉が見られ、夜のライトアップも見どころ
    また紅葉のシーズンでもある11月10日頃から月末までの早朝には、雲海を楽しむこともできる

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    大師堂

    室町期の石仏弘法大師を奉安する
    751年(天平勝宝3年)、東大寺実忠和尚により建立された正月堂の跡である
    旧正月堂は1331年(元弘元年)の元弘戦乱で焼亡、以来復興されず、1897年(明治30年)の関西鉄道の開通により、現笠置駅にあった大師堂を笠置寺旧正月堂跡に移築し現在に至る
    正月堂の名は笠置寺本尊礼堂にとどめる
    東大寺には、このため当初から正月堂は建立されていない

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    稲荷社(稲荷大明神)

    「その法を修するものには自由自在の力を与える」といわれる荼枳尼天(だきにてん)を祀る
    荼枳尼天は日本において稲荷の神格と同一であるとされ、稲荷大明神、飯縄大権現などと同等にされる
    笠置山の麓を流れる木津川は、古くより船による水運業が盛んで、笠置にも回船業が多く、鉄道が開通する以前、江戸時代~明治初期まで栄えていた
    当社は大正時代に笠置町内の回船業者の発願で、愛知県・妙厳寺(豊川稲荷)より勧請したものである

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    毘沙門堂

    笠置寺49院の1子院・多聞院の本堂である
    本尊は鎌倉期の像高54cmの木造毘沙門天である
    伝説では、楠木正成公の御念持仏として、かつては信貴山の毘沙門天とならび戦勝の神、福徳の神、財宝の神として多くの人々に信仰された
    建物が老朽化したため、2004年(平成16年)に現在の建物に改築したものである

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    下りの石段

     

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    行宮遺址碑への分岐

     

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    後醍醐天皇行宮遺跡碑(行宮遺址)

    1331年(元弘元年)8月27日から9月29日まで後醍醐天皇の仮皇居が笠置山山頂に置かれたのを記念して、1889年(明治22年)に有志者により高さ7.6m、幅6mの自然石に刻まれたもの
    一字は136cm四方もあるという

周辺

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    JR笠置駅

    駅前に「元弘の乱」における笠置山の戦いのジオラマモニュメント

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    栗栖天満宮

     

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    笠置町産業振興会館

    外壁に「笠置元弘の乱絵巻」、館内に後醍醐天皇と楠木正成が初めて対面した場面のジオラマ展示

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    わかさぎ温泉 笠置いこいの館

    来館者に癒やしの空間を提供するリラクゼーションスペース
    笠置山麓の地下1200mに沸く源泉32.2度の独特のヌメリ感と微弱の放射能(ラドンに含まれるという)を含む泉質は、肌にも優しく疲れた身体を癒すことができる

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    よしや

    雉料理・猪料理を楽しめる料理旅館

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    料理旅館 松本亭

    1890年(明治23年)創業のきじ料理と須弥の老舗料理旅館

笠置寺の主な年間行事・カレンダー

年中行事

8/16
笠置灯ろう流し

一般社団法人観光笠置の主催で、木津川笠置大橋上流200m左岸にて行われる
木津川の水難事故などで亡くなった多くの人たちを偲び、その霊を慰めるため、1960年(昭和35年)頃より毎年開催
笠置大橋上流河川の両岸に並べられた約200本の松明が川面に幻想的な情景を浮かべる中、笠置寺の住職による読経の後、19時頃より約600基の紙製の灯籠の中にロウソクに火を灯し、祈りとともに木津川に流す

11月中
笠置もみじまつり

 

11/1~11/30
もみじ公園ライトアップ

 

11/10~11/30頃
雲海

 

12/31
除夜の鐘

23:30頃より、参拝者も撞くことができる
鐘が撞けるのは年に1度大晦日のときのみ

月並行事

 
 

 

花ごよみ

 
桜(サクラ)

 

 
石楠花(シャクナゲ)

 

 
紅葉(こうよう)

 

笠置寺のレポート・旅行記

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