京都市左京区大原野村町、京都市の北東、高野川の上流に位置する大原の集落よりやや離れた金毘羅山(江文山)の南東麓、大原から静原に出る江文峠への峠道の傍らに鎮座する神社。
創建年代は不明ですが、古代より神社の背後に聳える江文山(現在の金比羅山)は神体山として崇められていたといい、その山の頂上の朝日の一番早く照る場所に祀られていた天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神の神々を、平安後期に住民たちが山麓の現在地に社殿を建立して勧請し、江文山の麓社として創建されたと伝わっています。
この点「延喜式神名帳」に見える山城国愛宕郡の式内社論社「伊多太神社」とする説もあるものの、通説では否定されています。
社伝によれば、12世紀中頃に大原の地に移った三千院の守護神・鎮守社として創祀されたとも、また平安前期に活躍した延暦寺座主の円仁(慈覚大師)(794-864)の勧請によるともいい、山王神道と深い関係を持つ神社でです。
その後、江文山の南腹に毘沙門天を本尊とする「江文寺」が建立されると、江文神社は同寺と神仏習合し、いわゆる「三十番神」の一神とされ崇められたといいます。
ちなみに「江文寺」は現在の不動堂付近にあったといわれ、創建の由緒などは明らかでないものの1130年(大治5年)には存在が確認でき、鎌倉末期作の「拾芥抄」にもその寺名が見えますが、その後、荒廃して廃寺になったと考えられていて、跡地には石碑が建てられています。
そして「三十番神」は神仏習合の信仰において1か月の30日の間、毎日交替で国や人々を守護して下さるとされた30柱の神々のことで、最澄が比叡山に祀ったのが最初とされ、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになり、中世以降はとりわけ日蓮宗・法華宗において重視され、本地垂迹説に基づき法華経を守護する神とされたといいます。
この三十番神には1日目の熱田大明神(熱田神宮)や10日目の天照皇太神(伊勢神宮内宮)などのほか、京都関連では7日目の北野大明神(北野天満宮)、9日目の貴船大明神(貴船神社)、11日目の八幡大菩薩(石清水八幡宮)、12日目の加茂大明神(上賀茂神社・下鴨神社)、13日目の松尾大明神(松尾大社)、14日目の大原大明神(大原野神社)、16日目の平野大明神(平野神社)、22日目の稲荷大明神(伏見稲荷大社)、24日目の祇園大明神(八坂神社)、そして25日目の赤山大明神(赤山禅院)なども入っていますが、江文大明神はこの三十番神における8日目を守護する神とされています。
戦国時代に織田信長の比叡山攻略の影響で衰退したものの、大原郷八か村の惣鎮守社として、そして現在も大原8地区の総氏神として地域の人々から崇敬を集めています。
社殿は中央とその左右に計3棟が並んで建てられており、中央の正殿には稲荷神として知られる穀霊神「倉稲魂神(うがのみたまのかみ)」、向かって右殿には風水の神「級長津彦神(しなつひこのかみ)」、そして左殿には火の神「軻過突智神(かぐつちのかみ)」を祀ります。
祭神は風・水・火、そして豊饒と生産の神々として広く崇敬されてきた神様で、現在も五穀豊穣のほか、衣服・アパレル、生産・産業振興などのご利益で知られています。
行事としては5月4日に神輿3基が氏子区域内を巡行する例祭「江文祭」のほか、9月1日に近い土曜日の「大原八朔祭」が知られています。
この点「八朔踊り」は京都市の登録無形民俗文化財にも登録されている大原に残る伝統芸能で、楽器を用いない独特の節が特徴の道念音頭踊る豊作祈願の踊りです。
絣の着物に菅笠を被った宮座の青年たちが輪になり、男は三度笠の道中姿、女は大原女姿で踊り、神社石段下での「伊勢音頭」にはじまり、「名所づくし」「大原踊」「黒木踊」「小野霞の踊」と各町の提灯を先頭に練りこみながら踊りが続いていきます。
そして神社にはその他にもう一つ、拝殿において「大原雑魚寝」と呼ばれる風習があったことでも知られています。
その昔、村の大淵と云う池に大蛇が住み、里に出ては人を襲ったので、里人が一か所に隠れて難を避けたのがはじまりで、いつしか節分の夜に参籠通夜することになったと云う伝承を持ち、浮世草子の作者として有名な井原西鶴(いはらさいかく 1642-93)の「好色一代男」にも描かれるなどしましたが、この風習は村の男女が集まって一夜を過ごすという風俗上の問題から、明治以前に禁止されたといいます。