「聖徳太子」とは
「聖徳太子(しょうとくたいし)(574?-622)」とは、飛鳥時代に活躍した政治家で、日本の歴史を代表する偉人の一人。
ちなみに聖徳太子は諡名で、仏法興隆した太子への賛仰(聖人や偉人の徳を仰ぎ尊ぶという意味)を込めて、太子の死後用いられたもので、706年造営の法起寺(ほっきじ)塔の露盤銘に「上宮太子聖徳皇」とあるのが最初だという。
正式名は厩戸(うまやど)皇子(厩戸の前で皇子を出生したので「厩戸」の名がつけられたという)。上宮(じょうぐう)王とも。
また「豊聡耳(とよさとみみ)」の別名は、訴訟裁定に際し「十人同時に話しかけられても聞き分けることができた」という有名な逸話から名付けられたもの。
574年(敏達天皇3年)生まれ。
父は用明天皇、母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后。
初めは父用明天皇の宮の南、上宮(うえのみや)に住み,その後斑鳩宮(いかるがのみや)(現在の法隆寺東院)に移った。
593年に叔母にあたる推古天皇の摂政として内政・外交に尽力、国史の編纂も行っている。。
「十七条憲法」や「冠位十二階」の制定により中央集権的官僚国家の基礎をつくり、小野妹子を「遣隋使」として派遣し大陸の進んだ政治制度や文化の導入に努めた。
また慧慈(えじ)に学んで「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著わし、法隆寺・四天王寺を建立するなど仏教興隆にも尽力した。
622年(推古30年)2月22日に斑鳩宮にて49才で没。
墓所は河内国磯長(しながの)墓(大阪府南河内郡太子町の叡福寺(えいふくじ)境内に現存)。
墓は径50m、高さ10mの円墳で、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室。
太子のほか母・穴穂部間人皇后、妃・膳郎女の3人の棺が納められていると伝えらており「三骨一廟」と呼ばれている。
仏教興隆にも尽力したため、平安期には聖徳太子自身が信仰の対象とされ、多くの太子像が作られた。 またその肖像画は旧一万円札、それ以前には千円札のデザインにも用いられていたことはよく知られている。