大徳寺 龍源院 京都観光

大徳寺 龍源院

大徳寺 龍源院

 

 

大徳寺 龍源院とは?(基本データ)

名前
大徳寺 龍源院(だいとくじ りょうげんいん)
エリア
紫野・鷹ヶ峯
ジャンル

寺社

建立・設立
1502年(文亀2年)頃
創始者
[開基] 能登国守護大名・畠山義元、周防国守護大名・大内義興、豊後国守護大名・大友義長
[開山] 大徳寺72世・東渓宗牧(とうけいそうぼく)
宗派
臨済宗大徳寺派 大徳寺塔頭・南派本庵
山号
 
本尊
釈迦如来坐像
寺紋
 
アクセス
  • 京都市営地下鉄烏丸線「北大路」駅下車 西へ徒歩約15分
  • 京都市営バス「大徳寺前」(1・12・急101・急102・204・205・206・北8・M1号系統)下車 徒歩約5分
駐車場
■大徳寺駐車場
├バス20台分 2,000円
└自家用車50台分 1時間まで500円、以後30分毎100円
拝観料
一般 350円
高校生 250円
小中学生 200円
※団体25名以上は50円引
御朱印 300円
お休み
4/19(その他に法要などの場合に拝観休止する場合あり)
拝観時間
9:00~16:30(閉門16:20)
住所
〒603-8231
京都府京都市北区紫野大徳寺町82-1
電話
075-491-7635
FAX
075-491-7635
公式サイト
龍源院庭園 京都市都市緑化協会

大徳寺 龍源院の地図

大徳寺 龍源院のみどころ (Point in Check)

京都市北区紫野大徳寺町、大徳寺境内の南側にある臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の塔頭の一つで、大徳寺南派の本庵。
本尊は釈迦如来坐像で、瑞峯院・大仙院・高桐院とともに大徳寺塔頭で常時公開している4つの寺院の一院。

室町後期の1502年(文亀2年)、大徳寺の開祖・大灯国師より第8代の法孫である大徳寺第72世住職・東溪宗牧(とうけいそうぼく 1455-1517)を開山として、能登(現在の石川県)の守護大名・畠山義元(はやけやまよしもと ?-1515)が豊後(現在の大分県)の守護大名でキリシタン大名として有名な大友宗麟の祖父にあたる大友義長(おおともよしなが 1478-1518)らとともに創建したのがはじまり。

この点、寺名は本山・大徳寺の山号である龍宝山(りゅうほうざん)の「龍」と中国・臨済宗松源派の祖・松源崇嶽(しょうげんすうがく 1132-1202)の禅を正しく継承する松源一脈の「源」の2文字を採ったものといいます。

そして明治の初め頃の「神仏分離令」によって現在の大阪・住吉大社内にあった慈恩寺と、飛騨(現在の岐阜県)高山藩の初代藩主・金森長近(かなもりながちか 1524-1608)が大徳寺内に建立した金龍院(きんりゅういん)とを合併し現在に至っています。

大徳寺塔頭の中では最も古い歴史を有するといい、方丈・玄関・表門はいずれも創建当初のもので国の重要文化財に指定。
中でも「方丈」は室町後期の1502年(文亀2年)の建立で大徳寺山内最古の建物といわれ、禅宗の典型的な形式を示していて、堂内室中の脇壇に安置されている「釈迦如来坐像」は高さ50cm余りの大きさですが、建長2年(1250年)・行心作の墨書が胎内に蔵されており、鎌倉期の名作の一つです。

そしてその方丈の南、東、北に趣きの異なる3つの庭園があり、

まず北側に広がる「龍吟庭(りょうぎんてい)」は、室町期を代表する絵師・相阿弥(そうあみ)の作庭と伝わる室町期の禅院式の枯山水庭園で、「洛北の苔寺」とも称されるように一面の大海原が青々とした杉苔で表現されているのが大きな特徴で、その苔の上に三尊石が建つ須弥山式の名庭です。

また南庭の方丈前庭「一枝坦(いっしだん)」は白砂と石組で構成された蓬莱山式の石庭で、白砂の大海に苔と石組で鶴島・亀島を配した吉祥の庭園、そして東側の「東滴壺(とうてきこ)」は方丈と庫裏の間にある中庭で、1960年(昭和35年)に鍋島岳生によって作庭されたもので、日本最小の石庭といわれ、一滴の波紋が大海原となって広がってゆく様が約4坪のわずかな空間の中に表現されている現代壺庭の傑作です。

この他に庫裏南側にも白砂の庭の東西に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝わる凹凸型の2つの礎石が配されていることから別名「阿吽の石庭」の名前で知られる書院前庭「滹沱底(こだてい)」があり、また寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔絵の碁盤や、天正11年(1583年)の銘がある種子島銃などを所蔵していることでも知られています。

大徳寺 龍源院の施設案内

 

境内

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    表門

    方丈・唐門ととともに創建当時の1502年(文亀2年)建立で、国の重要文化財
    切妻造・桧皮葺の四脚門

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    参道と唐門

    参道の突き当りにある唐門は方丈(本堂)へと至る切妻造・檜皮葺の玄関
    表門・方丈とともに創建当時の1502年(文亀2年)建立で、国の重要文化財

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    庫裏

    拝観入口となっている

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    書院

    庫裏の内部南側の部屋
    床の間に寺宝の火縄銃や碁盤が展示されている

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    日本最古の火縄銃

    銃床尾に天正11年(1583年)の年紀があり、火縄銃の中では在銘最古のもの

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    四季草木蒔絵碁盤 碁笥

    徳川家康が豊臣秀吉と伏見場内で対局した時の碁盤と伝わり、金森長近が秀吉から拝領した
    初代本因坊の奥書がある

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    滹沱底(こだてい)

    庫裏の堂内南側にある書院の前庭
    白砂の庭の東西に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝わる凹凸型の2つの礎石が配されていることから別名「阿吽の石庭」の名前で知られる
    名前は宗祖・臨済禅師が住した中国・鎮州城の南を流れる滹沱河から名付けられたという

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    担雪井

    創建当初からの井戸

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    方丈(本堂)

    室町後期の1502年(文亀2年)の建立
    日本で最も古い禅院方丈建築の遺構を残す貴重なもので国の重要文化財

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    室中(しっちゅう)

    方丈の中心の間で住持が禅の教えを説き、あるいは問答し、時には儀式法要を行う場所
    中央に本尊・木造釈迦如来坐像(重文)を安置
    襖絵「竜と波」は江戸初期、筆者不詳の南画

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    礼の間(れいのま)

    和尚と修行僧らが一衆和合、公式の茶礼書礼等を行った所
    昔は大名公家のお供が控えた場所であったという

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    檀那の間(だんなのま)

    経済面で和尚らを外護し世話をする檀越・檀家の者と和尚がお茶などを飲みながら親しく会う間

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    一枝坦(いっしだん)

    方丈南側にある方丈前庭
    白砂と石組で構成された蓬莱山式の石庭で、白砂の大海に苔と石組で鶴島・亀島を配した吉祥の庭園
    開山・東渓宗牧が師である実伝から賜った「霊山一枝之軒(りょうぜんいっしのけん)」という室号から命名

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    開祖堂

    開祖・東渓禅師の塔所
    一重入母屋造・檜皮葺きで、昭和の建物だが南北朝・鎌倉・室町初期時代の禅宗様の粋を取り入れられているという

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    鶏足山

    開祖堂前庭

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    龍吟庭(りょうぎんてい)

    方丈北側の庭
    室町期を代表する絵師・相阿弥(そうあみ)の作庭と伝わる室町期の禅院式の枯山水庭園
    「洛北の苔寺」とも称されるように一面の大海原が青々とした杉苔で表現されているのが大きな特徴で、その苔の上に三尊石が建つ須弥山式の名庭

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    東滴壺(とうてきこ)

    方丈の東側、方丈と庫裏の間にある中庭で、1960年(昭和35年)に鍋島岳生によって作庭
    日本最小の石庭といわれ、一滴の波紋が大海原となって広がってゆく様が約4坪のわずかな空間の中に表現されている現代壺庭の傑作
    5個の石のみで構成された簡素な壺庭で、白砂敷きの中に3対2の石組みに分けて配されている

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    茶室「参雨軒」

    境内北西、瑞峯院に向かい合って門を構える

関連

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    金龍院址(きんりゅういんあと)

    「金龍院」は慶長年中(1596~1615)に飛騨高山城主・金森長近が織田信長の追福のため伝叟(1569-1627)を請じて創建し、伝叟の墓所とした大徳寺の塔頭寺院の一つ
    明治初期の神仏分離令の時期に龍源院に合併されて廃寺となり、現在は紫野高校テニスコート南東角に寺院跡の石碑が建つ

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    大徳寺

     

大徳寺 龍源院の主な年間行事・カレンダー

年中行事

 
 

 

月並行事

 
 

 

花ごよみ

 
梅(ウメ)

参雨軒の軒先

 
皐月(サツキ)

龍吟庭

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