桓武天皇柏原陵 京都観光

桓武天皇柏原陵

桓武天皇柏原陵

794年の平安京遷都と蝦夷征討で有名な桓武天皇の陵

平安京遷都で知られる桓武天皇の陵墓。 791年に坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に派遣するなど朝廷権力の拡大を図り806年に70歳で崩御。 伏見桃山の柏原に埋葬され、以後朝廷より厚い崇敬を受けるも中世南北期の動乱で所在不明となり、江戸後期の陵墓探索事業を経て幕末に現在の場所に定められた

桓武天皇柏原陵とは?(基本データ)

名前
桓武天皇柏原陵(かんむてんのうかしわばらのみさぎ)
エリア
伏見・桃山
ジャンル

陵墓

建立・設立
794年(延暦13年)、桓武天皇(737-806)により平安京遷都
806年(延暦25年)3月17日、桓武天皇が内裏清凉殿において70歳で崩御、後に伏見の柏原の地に埋葬される
天皇名
第50代・桓武天皇(かんむてんのう)(在位781-806)
御陵名
柏原陵(かしわばらのみささぎ)
陵形
円丘
陵印保管場所
桃山陵墓監区事務所
アクセス
  • 京阪本線・宇治線「丹波橋」駅下車 東へ徒歩約13分
  • 近鉄京都線「近鉄丹波橋」駅下車 東へ徒歩約13分
  • 京都市営バス「丹波橋」(南8号系統)下車 東へ徒歩約7分
駐車場
伏見桃山城公園駐車場 有料
拝観料
無料
お休み
原則年間を通して参拝可(陵墓監区事務所まで要問い合わせ)
拝観時間
8:30~17:00
住所
〒612-0855
京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎
電話
075-601-1863(宮内庁書陵部桃山陵墓監区事務所)
FAX
075-601-1864(宮内庁書陵部桃山陵墓監区事務所)
公式サイト
桓武天皇 柏原陵 天皇陵

桓武天皇柏原陵の地図

桓武天皇柏原陵のみどころ (Point in Check)

京都市伏見区桃山町永井久太郎、明治天皇伏見桃山陵の北、伏見桃山城運動公園の西側にある、第50代・桓武天皇の陵墓。

この点、桓武天皇(かんむてんのう 737―806)は日本の第50代天皇で、奈良時代の末期から平安初期にかけて活躍し、794年(延暦13年)に「平安京遷都」を行った天皇としてあまりに有名です。

天智天皇の孫にあたる第49代・光仁天皇(こうにんてんのう 709-82)の第1皇子で即位前は山部親王(やまべしんのう)といい、名は「日本根子皇統弥照(やまとねこすめろぎいやてり)」、そして母は百済系渡来氏族の出で高野新笠(たかののにいがさ ?-790)といいます。

即位までの道のり

桓武天皇の父である第49代・光仁天皇は「大化の改新」で有名な第38代・天智天皇の第7皇子・施基皇子(しきのみこ 668-716)の子で、白壁王(しらかべ)といい、有名な「壬申の乱」で皇統が天智天皇系から天武天皇系に移っていたこともあって皇位継承とは無縁で、また8歳の時に父が薨去して後ろ盾を失くしていたため出世も遅かったといいます。

しかし749年(天平勝宝元年)に第45代・聖武天皇の譲位によって第46第・孝謙天皇(こうけんてんのう 718-70)が現在史上唯一である女性皇太子から女性天皇として無事に即位を果たすと、男子の後継者の誕生を警戒されることがなくなった孝謙天皇の異母姉妹・井上内親王(いかみないしんのう 717-75)は結婚を許されることとなり、皇位継承とは無縁の白壁王と結婚。このことが天武系皇統の一人として昇進を速めることとなります。

その後、孝謙天皇の譲位を受けて第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう 733-65)が即位すると、藤原仲麻呂(恵美押勝)(ふじわらのなかまろ 706-64)が重用されて実験を握りますが、やがて孝謙上皇が寵愛していた道鏡(どうきょう ?-772)を廃そうとして対立、764年(天平宝字8年)に「藤原仲麻呂の乱」を起こすも敗死し、天皇はその責めを問われて廃されて淡路に流され、孝謙上皇が重祚して第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう)となります。
そしてこの時に白壁王は「藤原仲麻呂の乱」の鎮圧に功績を挙げたといい、大納言に昇進を果たしています。

769年(神護景雲3年)に道鏡が豊前国の宇佐八幡宮の神託を理由に天皇の位を奪おうとして和気清麻呂(わけのきよまろ 733-99)に阻止された有名な「宇佐八幡宮神託事件」を経て、770年(宝亀元年)に第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう)が崩御すると、生涯独身の称徳天皇に後継者はなく、また度重なる政変によって天武天皇の嫡流にあたる男系皇族がほとんど粛清されてしまっていたこともあり、称徳天皇の異母姉で聖武天皇の第1皇女であった井上内親王と白壁王との間に生まれた他戸親王(おさべしんのう ?-775)は、女系ではあるものの天武天皇系嫡流の血を引く男性皇族として、称徳天皇の遺言に基づいて皇太子に立てられることとなります。

そしてこれと同時に他戸親王の父である白壁王が62歳にして皇位を継承し第49代・光仁天皇となりましたが、この62歳で即位という年齢は、令和の時代に入った現時点においても天皇の即位年齢の中で最高齢だといいます。

後に桓武天皇となる山部親王は、光仁天皇として即位するより30年以上も前に白壁王の子として生まれ、父親同様に当初は皇位継承とは無縁の立場であり、皇族としてではなく官僚としての出世を望まれ、大学頭や侍従に任じられていました。

また父が光仁天皇として即位することとなった際も、第1皇子ではあったものの、母が渡来人の出で家柄が低い高野新笠だったこともあってやはり皇位継承者という立場にはなく、天武天皇系嫡流の血を引く男性皇族であった異母弟の他戸親王が立太子されています。

ところが772年(宝亀3年)、36歳の時に光仁皇后・井上内親王が夫である天皇を呪詛したという大逆のかどで皇后を廃されるという事件が発生。次いでその子である他戸親王もこれに連座する形で皇太子を廃されることとなり、更に2人は光仁天皇の同母姉・難波内親王を呪詛し殺害したという嫌疑をかけられて幽閉され、母子とも急死するという痛ましい最期を迎えます。

そしてこの事件を受けて773年(宝亀4年)1月、山部親王は立太子されることとなり、781年(天応元年)4月には病気を理由に父から譲位を受けると45歳にして即位し、ここに第50代・桓武天皇が誕生しました。

これによってこれまで自壊しつつあった天武系の皇統は途絶え、天智天皇流に再び皇統が戻ることとなりましたが、この一連の事件はその資質を見抜いた藤原式家の祖としても知られる藤原百川(ふじわらのももかわ 732-79)の策謀によるものであったともいわれています。

桓武天皇の治世

この桓武天皇が生まれるよりも前の701年(大宝元年)のこと、「大宝律令」が完成すると日本は律令国家として再編され、「律」と「令」と呼ばれる法に基づいた国の支配の在り方は当初は上手く機能していました。

ところが桓武天皇が即位した頃には平城京における律令政治は乱れた状態で、南都六宗の寺社勢力が強大な権力を背景に政治に対し影響力を持ち、朝廷もこれを無視することができずに機能不全に陥っており、また地方政治にも手が回らなくなり始めると、地方に派遣されていた国司や郡司たちは自らの私腹を肥やす事ばかりに注力し、その結果、農民たちの生活を苦しめていたといいます。

青年期には官僚としての教育を受け、45歳にして即位することとなった桓武天皇は、この現状から脱却するためには抜本的な政治変革が必要であると痛感するとともに、自らが天智天皇系の皇統であることを強く自覚、天皇による律令制に基づく強力な政治を目指しつつも、乱れた律令政治の立て直しのために様々な改革を断行することとなります。

「長岡京」および「平安京」への遷都

そして桓武天皇の業績として何といっても有名なのが、平城京から都を遷すいわゆる「遷都事業」です。

平城京において肥大化した奈良の仏教勢力の影響力を嫌った天皇は、その弊害を除くため、784年(延暦3年)に当時はまだ未開の地も多かった山背国(やましろのくに)(現在の京都府)の「長岡京」への遷都を敢行。

しかしこの1回目の遷都事業は翌785年(延暦4年)9月、伊勢斎王となった娘の朝原内親王(あさはらないしんのう 779-817)を送るため平城旧宮に滞在していた留守中、造営の責任者である造宮使の藤原種継(ふじわらのたねつぐ 737-85)が暗殺されるという事件が発生したちまち暗礁に乗り上げることに。

この時、関係者は厳しく処断されていますが、この時天皇の実の弟であった早良親王(さわらしんのう 750-85)も暗殺に関与したとして皇太弟を廃されることとなり、更には乙訓寺に幽閉され、、絶食して無実を訴えましたが、淡路国に配流される途中で亡くなるという痛ましい事件となります。

そしてその後、早良親王の怨霊の仕業とされる天皇の周辺での近親者の不幸が相次ぎ、皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ 760-790)、夫人・藤原旅子(ふじわらのたびこ 759-788)などが相次いで没するとともに、更に791年(延暦11年)には皇太子・安殿親王(あてしんのう 774-824)(後の平城天皇)の病弱が親王の祟りであると占いに出たことなどから、和気清麻呂の建策に従って長岡京から再び都を遷すこととなります。

こうして792年(延暦12年)、新たな遷都の地として山背国葛野郡宇太村(やましろのくにかどのぐんうだむら)を選んで都の造営に着手し、794年(延暦13年)10月22日に遷都が行われ、更に翌月の詔で新たな都は「平安京」と命名されるとともに、山背国は「山城国」と改めてられています。

坂上田村麻呂の登用と「蝦夷征討」

次に歴代政権から引き続きの課題であり、光仁朝から引き継ぐ形で行われたのが「蝦夷征討(えみしせいとう)」で、東北地方で長年朝廷に従わず抵抗を続けてきた蝦夷を討伐するため、征討軍を計3回にわたって派遣しています。

このうち桓武朝における1度目は789年(延暦8年)のことで、この時は紀古佐美(きのこさみ 733-97)を征東大使とする軍が惨敗したものの、794年(延暦13年)の2度目の遠征では坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ 758-811)が征夷大将軍・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ 731-809)の補佐役として活躍。

更に801年(延暦20年)の3度目の遠征では坂上田村麻呂を征夷大将軍として派遣し、その活躍によって翌802年(延暦21年)には蝦夷の族長・阿弖流為(アテルイ ?-802)ら500人の蝦夷が投降し、京都へと護送されたことでその脅威は減退。

更に同年には田村麻呂により陸奥国胆沢郡に胆沢城(いさわじょう)(現在の岩手県奥州市水沢)が築かれて、東北地方支配の拠点である鎮守府が多賀城から移され、更に翌803年(延暦22年)にその北方に志波城(しわじょう)(現在の岩手県盛岡市中太田・下太田)が築かれ、蝦夷平定は大いなる進展を見せることとなりました。

律令政治の改革と平安仏教の確立

以上の2つが二大事業としてよく知られていますが、その他にも乱れた律令政治の改革のための様々な施策に取り組んでいます。

まず792年(延暦11年)には兵制の改革として「健児の制(こんでいのせい)」を定めました。これは律令制の下で国家の軍事組織として全国各地に置かれていた「軍団」を国境地帯などを除いて廃止し、地方軍事力として新たに「健児(こんでい)」を置くというもので、兵士は当時は一般的であった農民からの採用をやめ、郡司の子弟などから武術に優れた者を選んで組織され、これによって農民らの兵役の負担が解消されました。

次に地方政治の乱れを防ぐものとして国司・郡司を監督する「勘解由使(かげゆし)」を設置。国司交代の際の引継文書である「解由状(げゆじょう)」の交付に絡んで利得権が生まれ、これに絡んだ紛争がしばしば起きていたものを、審査を行うことで国司の仕事ぶりを監視するとともに国司交替の円滑化を図りました。

その他にも地方の役所である国衙で働く「雑徭(ぞうよう)」の日数を60日から30日と半減させ、稲を貸し出して徴収する「公出挙(すいこ)」の利息を5割から3割へと引き下げ、更に戸籍に基づいて口分田を分け与える「班田」の期限を6年から12年に倍増させるなど、民衆負担の軽減する策とを次々に打ち出しました。

また文化面では正史「続日本紀(しょくにほんぎ)」を完成させたほか、奈良時代の仏教政治の弊害を取り除くために寺院の移転や造営を認めず、僧の不法を取り締まるなど、既存仏教に対しては厳しい措置を行った一方、804年(延暦23年)には後に天台宗の祖となる最澄(さいちょう 767-822)や真言宗の祖となる空海(くうかい 774-835)を伴った第16次(18次とする説も)「遣唐使」を派遣、後の最澄・空海を中心とする新仏教(平安仏教)を確立に多大な影響を与えています。

「徳政相論」

このように抵抗勢力を抑えて国政を主導し、律令政治の改革なども積極的に押し進め、歴代天皇の中でも稀に見る積極的な親政を行った桓武天皇ですが、民衆の負担を軽減する施策を次々と打ち出した一方で、造都と征夷の二大事業は多大な出費と民衆の負担を伴っていました。

厳しい財政状況の中、平安京はあまりにも巨大な都で未だに造営の途中であり、また征夷についても更なる時間と兵力が必要でしたが、桓武天皇は晩年の805年(延暦24年)、式家の藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ 774-843)と菅野真道(すがのまみち 741-814)のともに腹心だった二人の参議に天下の徳政について議論を戦わせるいわゆる「徳政相論(とくせいそうろん)」を行わせることで、一つの決断を下すこととなります。

32歳の若き参議であった藤原緒嗣は、桓武天皇の即位に尽力した藤原百川の長子でしたが、蝦夷征伐と平安京造営の軍事・造作こそが民衆を疲弊させている原因であるとして停止を主張。

一方65歳のベテラン参議で渡来系氏族出身で天皇からの信頼も厚かった菅野真道は緒嗣の主張に真っ向から異議を唱えますが、最終的に桓武天皇は緒嗣の意見を採用する形で、二大事業の停止を決定。 この後、緒嗣が中心的編者を務めた「日本後紀」では、桓武天皇の治世について、造都や軍事による出費は多かったものの万世の基礎を築いたと評されています。

崩御とその子孫について

そしてこの相論から3か月後の翌806年(延暦25年)3月17日、桓武天皇は内裏清凉殿において70歳で崩御。在位は24年11か月に及び、その後継として第1皇子の安殿親王が即位し、第51代・平城天皇(へいぜいてんのう 774-824)となっています。

桓武天皇の皇統はその後、第2皇子である第52代・嵯峨天皇(さがてんのう 786-842)、第7皇子である第53第・淳和天皇(じゅんなてんのう 786-840)、そして嵯峨天皇の第2皇子で桓武天皇の孫にあたる第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう 810-50)と以降も脈々と受け継がれていくこととなります。

その一方、桓武天皇は多くの夫人との間に子も数多く授かり、これが後の810年に平城上皇と嵯峨天皇が対立した「薬子の変」の温床となったともいわれていますが、前述の後に天皇となった皇子以外にも、第3皇子(第5皇子とも)・葛原親王(かつらはらしんのう/かずわらしんのう 786-853)、第5皇子・万多親王(まんだしんのう 788-830)、第12皇子・仲野親王(なかのしんのう 792-867)および第10皇子・賀陽親王(かやしんのう 794-871)の子孫は皇孫3代目にして「平」の賜姓を受けて臣籍降下、後に武家の頭領として大きな影響力を持つこととなり「桓武平氏」の始祖ともされています。

中でも葛原親王の孫である高望王(たかもちおう)の流れは特に有名で、平安末期に太政大臣にまで昇進した平清盛(たいらのきよもり 1118-81)で有名な伊勢平氏や、北条・畠山・千葉・三浦・梶原などの諸氏を輩出しており、この高望王流の平氏を称して「桓武平氏」と呼ぶ場合も多いといいます。

「桓武天皇陵」について

桓武天皇はその在世中、崩御の後は平安京の北西近郊の山城国葛野郡宇太野、現在の京都市右京区の「宇多野(うたの)」の付近への埋葬を希望したともいわれていますが、賀茂氏などの在地勢力の反発を招いたためか直後に不審火などの事件が相次ぎ、占いの結果、陵墓が賀茂神社に近いための祟りであるとされ、「日本後記」によると山城国紀伊郡の「柏原山陵」に葬られ、更に「類聚国史」によるとその後10月に「柏原陵」に改装されたと記録が残っているといいます。

この「桓武天皇柏原陵」は「延喜式」の諸陵寮によると「兆域東八町、西三町、南五町、北六町、加丑寅角二岑一谷、守戸五烟」とあり、仁徳陵の領域である「東西八町、南北八町」よりはるかに広大な領域を占めていたといわれていて、また「仁部記」には1274年(文永11年)に陵墓が賊に荒らされ使いを派遣して状況検分を行った際の報告書に「抑件山陵登十許丈、壇廻八十余丈」とあって、その規模を窺い知ることができます。

この柏原陵は「延喜式」に記された永世不除の近陵として、平安時代から鎌倉前期にかけて歴代の朝廷の尊崇を集め、定期的に荷前使が派遣された他、国家の重大事に際しては天智天皇山科陵、嵯峨天皇嵯峨陵や仁明天皇深草陵などと並んで必ず告陵使(山陵使)が遣わされる習わしとなっていたといいます。

しかし中世南北期の動乱で朝廷の陵墓祭祀が衰退すると、多くの天皇陵は所在不明となり、とりわけ桓武天皇陵については安土桃山時代に豊臣秀吉(とよとみひでよし 1537-98)が「伏見城」を築いた際にその敷地内に入ってしまったため、更に行方不明となってしまい、以降は深草・伏見の間にあるとのみ知られていました。

その後、江戸時時代に入り行われた陵墓探索事業において、元禄年間(1688-1704)の修陵でひとまず伏見区深草鞍ヶ谷町の「谷口古墳」が柏原陵であると決定。

これを受けて江戸後期の1821年(文政4年)には、有栖川宮第7代当主・韶仁親王(ありすがわのみや つなひとしんのう 1785-1845)が比叡山の僧・尭覺(ぎょうかく)を開山として、陵墓を守護し桓武天皇の菩提を弔うために、谷口古墳の前に「浄蓮華院(深草毘沙門天)」を創建。御所より移築された総檜造・檜皮葺の建物を本堂とし、比叡山からもたらされたという桓武天皇の御影を祀られたといいます。

しかしその後も陵墓の所在については多くの異論が沸き上がり、伏見区深草鞍ヶ谷町の「山伏塚古墳」や、伏見区桃山町遠山の「黄金塚2号墳」などの古墳を推薦する説や、古図に基づき伏見区深草大亀谷古御香町の古御香宮(現在の大亀谷陵墓参考地)とする説、更には秀吉による伏見城の建設で破壊されてしまったとする説などが主張されてきました。

そして幕末に至り幕末から明治にかけての国学者で、陵墓や南朝史、皇室系譜などの研究に業績を残した谷森善臣(たにもりよしおみ 1818-1911)は勤王の志が篤く、山陵の荒廃を嘆いて畿内各地の陵墓を調査し、柏原陵に関しても「柏原山陵考」を著し、旧伏見城下の堀久太郎、永井右近の屋敷跡にあった高まりを桓武天皇陵であると考証。

これが明治政府に引き継がれる形で1880年(明治13年)に紀伊郡堀内村字三人屋敷、現在の伏見区桃山町永井久太郎の地が柏原陵であると定められ、現在の陵は明治以降に大修理されたものです。

ちなみに現在の「永井久太郎」という少し変わった地名は、屋敷跡の主である堀久太郎、永井右近の二人の名を合わせたものだといいます。

この点、天皇陵の治定はそのほとんどが南北朝の動乱の後に所在不明となった後に江戸時代から明治初期にかけて行われたもので、明確な証拠などがない場合も多く、桓武天皇の「柏原陵」についても桃山丘陵にあった可能性は高いものの、豊臣秀吉による伏見城の築城や、その後の伏見桃山陵の造営によって大きく改変されているため、正確な位置の特定は困難だといいます。

一方、一時期柏原陵であると主張された大亀谷のものは、現在の柏原陵が正式に治定されてからは陵墓参考地となり、現在は「大亀谷陵墓参考地(おおかめだにりょうぼさんこうち)」と呼ばれています。

ちなみに桓武天皇の皇后で、平城天皇・嵯峨天皇の生母でもある藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ 760-90)の陵墓である「桓武天皇皇后 天之高藤広宗照姫之尊 高畠陵」は、前述の長岡京造営の責任者であった藤原種継暗殺事件に連座して不慮の死を遂げた早良親王の事件の直後に亡くなっていることもあり、長岡京のあった向日市に設けられています。

桓武天皇柏原陵の施設案内

 

陵内

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    桓武天皇陵南参道入口

    御陵の南側、乃木神社の鳥居の向かいに南入口があり、参道を南から北へ向かう

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    参道

    南口から北へ

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    「桓武天皇御陵参道」の道標

    西から東へと伸びる明治天皇伏見桃山陵参道との交差位置にある

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    参道

     

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    伏見桃山城運動公園との分岐

    東にある伏見桃山城運動公園の入口へ続く道と交差する

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    参道

     

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    柏原陵入口

    奥に伏見桃山城運行公園の模擬天守が見える

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    制札

    宮内庁による

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    柏原陵全景

     

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    「桓武天皇柏原陵」の石標

     

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    柏原陵拝所

     

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    参道

     

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    桓武天皇陵西参道入口

     

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    丹波橋通

     

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    第二御陵踏切

    JR奈良線

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    伏見区桃山長岡越中南町交差点

    国道24号との交差点

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    近鉄奈良線の高架

     

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    「桓武天皇御陵」の道標

    京阪丹波橋駅の北側にある踏切で、東五町とある

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    京阪・近鉄丹波橋駅

     

周辺

関連

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    大亀谷陵墓参考地(おおかめだにりょうぼさんこうち)(古御香宮)

    京都市伏見区深草大亀谷古御香町、JRの藤森駅の南東の住宅街にに鎮座する御香宮神社の御旅所「古御香宮」にある第50代・桓武天皇の陵墓候補地
    「古御香宮」は1594年(文禄3年)に豊臣秀吉が伏見城の築城にあたって場内の鬼門除けとするために御香宮をこの地に遷したもの
    その後、御香宮神社は秀吉の没後に天下人となった徳川家康が、1605年(慶長10年)に城下町の人心を安定させるために元あった現在地に戻した
    このような経緯から地元の人々より「古御香宮」と呼ばれ、10月の「御香宮神幸祭」の際には神輿渡御の際の御旅所となっている
    ちなみに秀吉がこの地に神社を祀ったのは、隣接する桓武天皇の陵墓参考地を保護する必要上からとも伝えられているという

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    浄蓮華院(深草毘沙門天)・谷口古墳

    伏見区深草鞍ヶ谷町
    江戸時時代に行われた陵墓探索事業において元禄年間(1688-1704)の修陵でこの地にあった「谷口古墳」が桓武天皇の柏原陵と決定された
    これを受けて1821年(文政4年)に有栖川宮韻仁親王が比叡山の僧・尭覺を開山に陵墓を守護し桓武天皇の菩提を弔うため、古墳の前に創建したのた当寺院で、御所より建物を下賜され堂宇とし、比叡山の桓武天皇御影を祀った
    建物はその後1958年(昭和33年)に現在の洋風建築に建て替えられている
    古墳はその後の調査で6世紀後半のものと伝わる

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    「深草毘沙門天・桓武天皇陵」の道標

    伏見区深草谷口町、京阪藤森駅の東、仁明天皇 深草陵の南側、深草谷口町交差点にある
    現在の桓武天皇陵への道標ではなく、江戸時代に陵墓と決定された谷口古墳の前に創建された浄蓮華院(深草毘沙門天)への道標

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    山伏塚古墳

    伏見区深草鞍ヶ谷町、谷口古墳のすぐそば
    6世紀後半のものと伝わる

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    黄金塚2号墳(伊予親王巨幡墓)

    伏見区桃山町遠山、伏見桃山城運動公園の東方
    後円部墳頂の五輪塔が宮内庁により「巨幡墓(こはたのはか)」として第50代・桓武天皇の第3皇子・伊予親王の墓に治定されている
    古墳は5世紀ものもであると伝わる

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    桓武天皇皇后 天之高藤広宗照姫之尊 高畠陵

    京都府向日市寺戸町
    桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ 760-90)の陵墓
    藤原式家の藤原良継の娘で、第51代・平城天皇・第52代・嵯峨天皇の生母
    長岡京の造営責任者であった藤原種継の暗殺事件に関連して桓武天皇の弟・早良親王が配流となって亡くなった事件を受け、桓武天皇の身内に不幸が起こったうちの一人で、その死は桓武天皇が平安京遷都を決意する理由となったといわれる
    長岡京で亡くなっているため長岡京にほど近い長岡山陵にて埋葬された
    ただし考古学的には古墳時代前期(4世紀代)の首長墓とされ、「伝高畠陵古墳」と称される

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    大極殿公園(長岡京 長岡宮跡)

     

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    平安京朝堂院 大極殿跡

     

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    平安神宮

    桓武天皇を祭神として祀る

桓武天皇柏原陵の主な年間行事・カレンダー

年中行事

 
 

 

月並行事

 
 

 

花ごよみ

 
 

 

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