白雲神社(御所の弁天さん)
白雲神社(御所の弁天さん)とは?(基本データ)
- 名前
- 白雲神社(御所の弁天さん)(しらくもじんじゃ(ごしょのべんてんさん))
- エリア
- 京都御所
- ジャンル
- 建立・設立
- 1224年(元仁元年)
- 創始者
- 太政大臣・西園寺公経
- 祭神
- 市杵島姫命(妙音弁財天)
- ご利益
- [本社] 芸能上達(特に音楽)・財宝・学問
[薬師石] 病気平癒 - 例祭
- 6/15(例祭)
他に火焚祭(11/10)などが知られる - 神紋・社紋
- 左三つ巴
- アクセス
- 駐車場
- ■中立売西駐車場
├バス20台 3時間1300円(以降1時間毎200円)
└自家用車250台 3時間500円(以降1時間毎100円)
7:40~19:30(出場は24時間可) - 拝観料
- 無料
- お休み
- 無休
- 拝観時間
- 3月春分の日~9月秋分の日 6:00~18:00
9月秋分の日~3月春分の日 6:30~17:30 - 住所
- 〒602-0881
京都府京都市上京区京都御苑内 - 電話
- 075-211-1857
- FAX
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- 公式サイト
- 上京区の史蹟百選/白雲神社 京都市上京区
木造弁才天坐像(西園寺妙音堂旧本尊) 文化遺産データベース
白雲神社(御所の弁天さん)の地図
白雲神社(御所の弁天さん)のみどころ (Point in Check)
京都市上京区京都御苑、宗像神社・厳島神社とともに京都御苑内に鎮座する3つの神社のうちの一社。
旧西園寺家(さいおんじけ)の鎮守社で、鎌倉時代の1224年(元仁元年)に太政大臣・西園寺公経(さいおんじきんつね 1171-1244)が現在の金閣寺(鹿苑寺)の地に「北山第」を造営するに際し建立した「妙音堂」に由来するとされ、別当・成就心院に回向させるとともに、第86代・後堀河天皇(ごほりかわてんのう 1212-34)の准母・邦子内親王(安嘉門院)(くにこないしんのう(あんかもんいん) 1209-83)が臨幸したのがはじまりとされています。
この点「西園寺家」は名門藤原家の流れを汲む藤原氏北家の支流で、摂関家に次ぐ家格を持つ清華家(せいがけ)の一つ。
平安末期の藤原公実(ふじわらのきんざね 1053-1107)の子・藤原通季(ふじわらのみちすえ 1090-1128)を祖とし、通季の曾孫にあたる公経が京都北山に営んだ「西園寺」の名が家名とされました。
鎌倉期に公経の時代に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の姪・一条能保女を娶ったことで武家政権にいち早く近づき、1221年(承久3年)の後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対し挙兵し敗れた「承久の乱」の際には反乱をいち早く幕府に内報、そのため幕府の信任を得て、乱の後に家例を超えて従一位・太政大臣に昇格するとともに公武間の連絡役である「関東申次(もうしつぎ)」の職に就任します。
更に第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう 1220-72)の後宮に入れた孫・西園寺姞子(さいおんじきつし 1225-92)が第89代・後深草天皇(ごふかくさてんのう 1243-1304)・第90代・亀山天皇(かめやまてんのう 1249-1305)を生んだことから、天皇の外戚として摂関家を凌ぐ権勢を得ます。
しかし西園寺公宗(さいおんじきんむね 1310-35)の時代に建武の新政権に背き後醍醐天皇の暗殺を謀ったために誅せられ、その子・西園寺実俊(さいおんじさねとし 1335-89)が後に再興。幕末に入り徳大寺家より養子に入った西園寺公望(きんもち)が家を継ぐと、明治から昭和期にかけて文相・外相・蔵相、そして総理大臣などを歴任し、最後の元老として政界で大きな役割を果たしていて、また1869年(明治2年)に白雲神社の地に開いた私塾「立命館」の名は、現在の立命館大学へと継承されています。
そして公経が「北山第」を造営の際に建立した「妙音堂」に祀られた妙音弁財天は芸能や財宝の神様として知られていますが、西園寺家は琵琶を家業としたことでも有名で、天皇や上皇に琵琶の秘曲を伝授する琵琶の宗家であったことから、とりわけ「音楽の神」として祀られたといいます。
当時絶大な権勢を誇った西園寺家の北山第については「増鏡」「中務内侍日記」「太平記」などにも当時の風雅な佇まいが記されているといいますが、その後、西園寺家の盛衰に伴って変遷をたどることとなり、近古には赤八幡京極寺にしばらく鎮座した後、江戸中期の1769年(明和6年)に前内大臣・西園寺公晃(さいおんじきんあき 1702-70)および前右大臣・西園寺賞季(さいおんじよしすえ 1743-1800)が勅許を賜り西園寺邸の移転と共に現在地に再興。
更に江戸後期の1840年(天保11年)、1857年(安政4年)の社殿修築に際しては、禁中各御所より寄付を賜り禁裏御祈祷所と定められ、また庶人の信仰も集めるようになり、寛政年間(1789-1801)の頃より「巳の日講」には多くの参詣者が訪れたと伝えられています。
そして明治期に入り天皇の「東京行幸(とうきょうぎょうこう)」とともに西園寺家が東京へ移ると、妙音堂は管理者不在となるとともに「廃仏毀釈」によって廃祀の危機となりますが、地元有志の尽力により神社として存続することとなり、1878年(明治11年)、弁財天を宗像三女神の1柱である市杵島姫命に変更し神仏混淆の作法を神式に改めるとともに、かつての鎮座地の白雲村の旧称をとって現社名「白雲神社」に改められ、現在に至っています。
そして西園寺妙音堂の旧本尊である琵琶を弾く姿をした「木造弁才天坐像」は、琵琶の名手として知られた藤原師長(ふじわらのもろなが 1138-92)が妙音天を感得・信仰し西園寺にもたらしたものといい、2002年(平成14年)6月26日に国の重要文化財に指定されています。
行事としては毎年6月15日より「例祭」が行われ、神事のほか白拍子舞や茂山千五郎社中による狂言の奉納などがあり、また11月10日の「火焚祭」では神事のほかに湯立神楽が奉納されます。
その他にも毎月巳の日には「巳の日祭」が行われ、お祓い・お清めが受けられるといいます。
白雲神社(御所の弁天さん)の施設案内
境内
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鳥居・社号標・駒札
境内西側、本殿は西面している
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参道
石畳の参道が続く
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神明鳥居と社
参道左手
祭祀不明
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絵馬舎
参道右手
内部には絵馬が飾られ、休憩所のようになっている
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絵馬掛
絵馬舎の脇
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手水舎
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本殿
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社務所
本殿左手
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福寿稲荷神社
本殿の右奥にある末社
西園寺家の屋敷神として祀られていたという
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薬師石
本殿裏
別名「御所のへそ石」とも呼ばれ、古くから磐座として信仰の対象となった神聖な場所
この石を手で撫でて患部をさすると怪我や病気の治療に効験があると伝えられる
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献灯台
本殿前
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献灯台
本殿横
「大典紀念」と刻まれ、前には桶が並べられている
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南口
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南参道
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西園寺邸跡
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関連
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出町妙音堂(妙音弁財天)
かつて金閣寺付近にあった西園寺家の別荘「北山第」の地には妙音堂と呼ばれる堂が建てられ、青龍妙音弁財天画像とともに本尊として弁財天像が祀られていた
様々な経緯を経て、青龍妙音弁財天画像は出町妙音堂の本尊として、もう一方の弁財天像の方は白雲神社の祭神として祀られている
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西園寺
京都市上京区寺町通鞍馬口下ル高徳寺町にある浄土宗寺院
鎌倉初期の1224年(元仁元年)、藤原(西園寺)公経が現在の金閣寺(鹿苑寺)付近に別荘「北山第」とともに御願寺として「西園寺」を創建したのがはじまり
境内には衣笠山を借景とした苑池、池畔には本堂や寝殿などの堂宇が建てられたといい、以来この寺の名前が同家の家名となり、寺は北山第とともに子孫に領有されていったという
しかし後ろ盾となっていた鎌倉幕府の滅亡に伴って西園寺家が衰退すると北山第は荒廃、室町時代に第3代将軍・足利義満が自身の別荘「北山殿」、後の金閣寺(鹿苑寺)が造営されるのに伴って同地を所望したため、寺は1352年に室町に移転
その後、1590年(天正18年)(1554年とも)に秀吉の京都改造計画に伴い、寺町通沿いに移転し現在に至る
現在の本堂は1788年(天明8年)の「天明の大火」の後に再建されたもので、正面には明治・大正・昭和の三時代にわたって政治家として活躍し2度にわたって内閣総理大臣を務めた西園寺公望(さいおんじきんもち 1849-1940)の筆による寺号の額が掲げられているほか、堂内の本尊・木造阿弥陀如来坐像は北山殿の邸内の北山堂にあったとも、平安時代の恵心僧都(えしんそうず)の作とも伝わり、重要文化財に指定
その他にも地蔵堂には旧地の北山にあった功徳蔵院(くどくぞういん)の遺仏と伝わる地蔵菩薩像が安置されている
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京極寺(赤八幡京極寺)
烏丸紫明の南東
かつての遷座先
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周辺
白雲神社(御所の弁天さん)の主な年間行事・カレンダー
年中行事
- 1月最初の巳の日
初巳
7:00より早朝参拝式
- 6/15
例祭
14:00より祭典
白拍子舞の奉納
茂山千五郎社中による狂言奉納- 9月一の巳・二の巳の日
巳成金
弁財天小判お守り頒布
7:00より開運祈願祭斎行- 11/10
火焚祭
13:00
除災開運 湯立神楽奉仕
月並行事
- 毎月巳の日
巳の日祭
7:00より約30分の参拝式が行われ、お祓い・お清めが受けられる(参列自由・無料)