高松神明神社
高松神明神社とは?(基本データ)
- 名前
- 高松神明神社(たかまつしんめいじんじゃ)
- エリア
- 三条寺町・四条河原町
- ジャンル
- 建立・設立
- 平安中期
- 創始者
- 源高明(みなもとのたかあきら)
- 祭神
- 天照大御神・八幡大神・春日大神
- ご利益
- 開運・厄除け
子どもの知恵授かり(神明地蔵尊) - 例祭
- 10月第3日曜(秋の祭礼)
他に夏越大祓(6/30)などが知られる - 神紋・社紋
- アクセス
- 駐車場
- なし
- 拝観料
- 無料
- 休み
- 無休
- 拝観時間
- 9:00~18:00
- 住所
- 〒604-8271
京都府京都市中京区姉小路通釜座東入津軽町790 - 電話
- 075-231-8386
- FAX
- 075-231-8386
- 公式サイト
- 高松神明神社奉賛会 Facebook
高松殿址 京都市
高松神明神社の地図
高松神明神社のみどころ (Point in Check)
京都市中京区姉小路通釜座東入津軽町、地下鉄烏丸御池駅の南西にあるNHK京都放送局の南型を通る姉小路通を西へ進んだ先に鎮座する神社で、平安時代にに後白河天皇などが御所(里内裏)として使用した「高松殿」の旧跡であり、鎮守社でもあった神社です。
平安中期、第60代・醍醐天皇の10番目の皇子・高明親王が920年(延喜20年)、7歳の時に源朝臣の姓を賜り源高明(みなもとのたかあきら 914-82)となり、平安京の左京三条三坊三町に自らの御殿として「高松殿」を造営。
同時に伊勢神宮より天照大神を勧請し、高松殿の鎮守社として祀ったのがはじまり。
後に藤原道長の妻となった高明の娘・明子も高松殿を伝領して住居とし、道長の娘・寛子が小一条院(敦明親王)に嫁ぐと、その御所となり「高松殿」と呼ばれるなど、藤原氏の摂関政治の全盛期に高松殿は女御や退位した上皇の御所となった場所でした。
その後焼失し、平安後期の1146年(久安2年)に鳥羽上皇により再興された後、1155年(久寿2年)には後白河天皇(1127-92)がここ高松殿で即位し、御所(里内裏)として使用し「高松内裏」と称されました。
そして天皇と上皇の兄弟の争いに端を発した1156年(保元元年)の「保元の乱」の際には弟・後白河天皇方の本拠地となり、源義朝(みなもとのよしとも 1123-60)や平清盛(たいらのきよもり 1118-81)らが参集して、兄・崇徳上皇(すとくじょうこう 1119-64)方の白河北殿へ攻め込み、わずか一日で勝利を収めましたが、その3年後に起きた1159年(平治元年)の「平治の乱」で高松殿は焼失し、当社のみが残されたといいます。
室町時代の1565年(永禄8年)には宥玉法印が山ノ内より社僧として入ると、神社は「高松神明宮宝性院」という神仏習合の神宮寺となり真言宗・東寺宝菩提院の末寺となります。
その後1590年(天正18年)の秀吉による京都の都市改造計画で釜座通と小川通を開いた際に半分に縮小したほか、度々火災に遭うなどし境内地は徐々に縮小。
また境内には地蔵尊、金比羅神社をはじめとする末社もあったといいますが、幕末1864年(元治元年)の「蛤御門の変」による大火によりことごとく焼失したといいます。
そして明治初期に「神仏分離令」が発令されると、1873年(明治6年)に宝性院は廃寺となり、社号も現在の「高松神明神社」に改められました。
ちなみに「神明神社(しんめいじんじゃ)」とは、天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社で、神社本庁によれば日本全国に約5千社、一説には約1万8千社あるともいわれています。
現在の社殿は1911年(明治44年)に造営されたもので、祭神として天照大神・八幡大神・春日大神を祀り、開運厄除けのご神徳で信仰を集めています。
また境内には神宮寺の宝性院だった時代の1794年(寛政6年)に宥玉法印が、紀州九度山の伽羅陀山に安置してあった真田幸村の念持仏を拝領してきたという神明地蔵尊「幸村の知恵の地蔵尊」が祀られています。
地蔵堂の台石をさすり、子達の頭をなでると知恵を授かると信仰を集めており、近年は京都では数少ない真田幸村ゆかりのスポットとして戦国・歴史ファンからも注目を集めています。
高松神明神社の施設案内
境内
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一の鳥居
白鳥居
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「此付近 高松殿址」の石標
白い石造りの鳥居の左
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社号標
白鳥居の右
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参道
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社務所・奉賛会事務所
参道右手
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壁画「平成神幸行列」
日本画家・林屋拓蓊(たくおう)の筆
参道左
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絵馬掛
結び雁金と六文銭入りの真田絵馬
参道左
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オガタマノキ
中京区の区民誇りの木
白鳥居の手前左
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二の鳥居
本殿前
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手水鉢と水琴窟
地蔵堂の左横
神社の創建一千年を記念して、2014年(平成26年)に地蔵堂の横に設置
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神明地蔵尊
本殿左の小さな祠
真田幸村は1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で西軍に味方したため、戦後父の真田昌幸とともに紀州九度山に追放され、毎日のようにを拝んでいたという地蔵尊
その後幸村は九度山を脱出して大坂城に入城し「大坂の陣」で大活躍することに
地蔵尊は紀州九度山の善名称院(ぜんみょうしょういん)(別名・真田庵)に安置されていたが、江戸後期の1794年(寛政6年)に神宮寺・宝性院の時代の時に譲り受けた
台石をさすった後、子供の頭をなでると知将としても知られた幸村のように知恵を授かることができると伝えられている
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本殿
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周辺
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姉小路通
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NHK京都放送局
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