鳥羽離宮跡公園(鳥羽離宮南殿跡)
院政の舞台鳥羽離宮の南殿跡、鳥羽伏見の戦い開戦の地
鳥羽離宮は平安後期白河上皇の院政開始の象徴として造営を開始。 鳥羽・後白河・後鳥羽上皇と栄達を極めるが院政の終焉とともに離宮内の建物もほとんどが姿を消す。 戦後の発掘調査で離宮内で最初に造営された南殿跡が国の史跡に指定され史跡公園として整備。 鳥羽伏見の戦いの古戦場跡でもあり戦跡碑も
鳥羽離宮跡公園(鳥羽離宮南殿跡)とは?(基本データ)
- 名前
- 鳥羽離宮跡公園(鳥羽離宮南殿跡)(とばりきゅうあとこうえん(とばりきゅうみなみどのあと))
- エリア
- 鳥羽・竹田・淀
- ジャンル
- 建立・設立
- 鳥羽は元来交通の要衝で都の外港としての機能、貴族達の別邸が建ち並び狩猟や遊興に耽る風光明媚な場所だった
1086年(応徳3年)、白河上皇により鳥羽離宮の造営が開始され、その後北殿・南殿・泉殿・馬場殿(城南宮を付設)などがあいついで完成、朱雀門の南方に位置し御所と堂塔および苑池からなる東西1.5km、南北1kmの広大な離宮で当時の日記に「都遷りがごとし」といわれるほどだった
続く鳥羽上皇の時代に東殿(安楽寿院を付設)・田中殿を新たに造営(中島を加え大きく6つに分かれる)、更に後白河上皇、後鳥羽上皇まで4代150年続くが、院政の終焉とともに離宮内の建物は姿を消していき南北朝の動乱による焼失などもあり現在は安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみ
1868年(慶応4年)正月3日、離宮公園から西北、小枝橋付近で戦闘が開始され「鳥羽伏見の戦い」が開戦
1912年(明治45年)、離宮の庭園の築山だった秋の山の頂上付近に鳥羽伏見の戦いが勃発した場所を示す「鳥羽伏見戦跡碑」が建設される
1963年(昭和38年)から1965(昭和40年)にかけて南殿跡の発掘調査が行われ、後に国の史跡に指定され現在は史跡公園として整備
1998年(平成10年)、「鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋」の石碑が建設される - アクセス
- 駐車場
- なし
- 拝観料
- なし
- お休み
- 特になし
- 拝観時間
- 見学自由
- 住所
- 〒612-8463
京都府京都市伏見区中島御所ノ内町 - 電話
- 075-701-0101(京都府京都土木事務所)
- FAX
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- 公式サイト
- 鳥羽離宮 京都市
鳥羽離宮跡 京都市(PDF)
鳥羽離宮跡公園(鳥羽離宮南殿跡)の地図
鳥羽離宮跡公園(鳥羽離宮南殿跡)のみどころ (Point in Check)
「鳥羽離宮(とばりきゅう)」は、京都市南区上鳥羽および伏見区下鳥羽・竹田・中島の一帯、現在の名神高速「京都南インター」の南東付近にあった上皇の住む院御所のこと。
平安後期に白河上皇が建造し、その後は鳥羽上皇、後白河上皇を経て、鎌倉時代の鳥羽上皇まで引き継がれ、いわゆる「院政」の舞台となった場所で、別名「鳥羽殿(とばどの)」「城南離宮じょうなんりきゅう)」とも呼ばれています。
この点「鳥羽」の地は、朱雀大路の延長線上、平安京の羅城門からまっすぐ南へ約3km進んだ付近にあり、山陽道が通るほか、鴨川と桂川の合流地点にあり、朱雀大路を延長した「鳥羽作道」を通じて平安京の外港としての機能を持つなど、交通および物流の要衝であった場所です。
そしてその一方で豊かな水に恵まれた風光明媚な場所でもあり、古くから貴族たちが別邸を建て、狩猟や遊興を楽しんでいたといわれています。
その後、白河上皇の時代からは鳥羽は経済・物流の拠点としてだけではなく、いわゆる「院政」が敷かれて政治の中心地にもなった場所でした。
ちなみにこの地に離宮を築いたのは、都で大きな影響力を持っていた藤原摂関家の影響を避けるためともいわれています。
近臣である藤原季綱より鳥羽の別邸を献上された白河上皇は、大規模な拡張工事を行い、この建物は後に「南殿」と呼ばれました。
そして1086年(応徳3年)から開始された離宮の造営はその後も続き、「北殿」「泉殿」「馬場殿」などが相次いで完成したといいます。
続く鳥羽上皇の代にも「東殿」「田中殿」の造営が行われたほか、東殿の邸内には自らの墓所として定めた「本御塔(三重塔)」と美福門院の墓所として予定されていた「新御塔」も造営され(実際には近衛天皇が葬られている)、極楽浄土が現世に築き上げられました。
このようにして数十年かけて築き上げられた鳥羽離宮は、東西1.5km、南北1km、面積180万平方メートルに及ぶ広大な敷地に、寝殿を中心とする多数の御殿や苑池、仏像を安置する御堂や堂塔までも建ち並ぶ壮大なものだったといいます。
そしてその繁栄は後鳥羽上皇のが「承久の乱」で鎌倉幕府に敗れて院政が終焉を迎えるまで続きますが、その後、南北朝の動乱の戦火によって多くの建物が焼失したこともあり急速に荒廃していきました。
このため残念ながら現在、当時の豪華な建造物は残されていませんが、現在までの発掘調査で鳥羽離宮は大きく分けて6つ、北殿・南殿・馬場殿・田中殿・東殿および泉殿・中島で構成されていたことが判明しており、鳥羽離宮関連の史跡としては「鳥羽離宮跡公園」のほか、「安楽寿院」や「城南宮」、そして白河・鳥羽・近衛の各天皇陵などがあります。
このうち最初に建設された「南殿」のあった場所に史跡公園として整備されたのが「鳥羽離宮跡公園」で、国の史跡にも指定されており、石碑や説明板などが建てられているほか、公園北側には「平家物語」にも登場する鳥羽離宮の築山跡とされる「秋の山」があり、往時を偲ばせます。
公園は周囲を苑池に囲まれた市民憩いの場で、中央のグラウンドでは野球をする子供たちの姿が見られるほか、遊具もあることから小さな子供を連れた家族連れの姿を見かけることも多いです。
その一方で一帯は幕末には「戊辰戦争」の発端となる「鳥羽伏見の戦い」が繰り広げられた行われた場所でもあり、このうち築山には新政府軍の陣が敷かれたといい、ここから数に勝る幕府軍に砲撃を浴びせて撃退したと伝わっています。
このことから園内には1912年(明治45年)に「鳥羽伏見戦跡碑」、1998年(平成10年)に「鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋」の石碑がそれぞれ建立されています。
この他にも平安京の南方を守護する「城南宮」は、馬場殿の敷地内に取り込まれて鳥羽離宮の鎮守社とされ、毎年流鏑馬や競馬が催されていたといい、現在も方除け・交通安全の社として人々に親しまれています。
また「安楽寿院」は鳥羽離宮の東殿を寺院に改めたもので、現在は真言宗の寺院ですが、当時は三重塔や阿弥陀堂、閻魔堂、不動堂、石造五輪塔なども建てられた大寺院だったといい、鳥羽伏見の戦争では官軍(薩摩軍)の本営にもなったといいます。
この他に隣接する近衛天皇となっている多宝塔は豊臣秀頼が再興したもので、建造物のある天皇陵は珍しいといいます。
最後に「田中殿」は鳥羽上皇の皇女・八条院のために建てられ御所で、現在は公園として整備されているほか、史跡跡を示す石碑も建てられています。
これらの鳥羽離宮跡をめぐる史跡めぐりも距離約4.5km、所要時間約3時間かかりますがおすすめです。
鳥羽離宮跡公園(鳥羽離宮南殿跡)の施設案内
園内
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鳥羽離宮跡公園入口
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鳥羽離宮南殿跡の説明板
入口そば
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グラウンド
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公衆トイレ
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遊歩道
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ブランコ
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すべり台
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池と休憩所
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鳥羽伏見の戦い顕彰碑と布陣図碑
「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地 小枝橋」のタイトルの石碑とその左側には鳥羽・伏見方面戦闘図のタイトルの石碑が並んで建てられている
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秋ノ山
公園北側にある土盛り
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頂上へ向かう階段
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鳥羽伏見戦跡碑
秋の山の頂上にある
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休憩所
西側の千本通(鳥羽街道)沿いにもある
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鳥羽殿跡
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鳥羽殿跡石碑
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鳥羽離宮南殿跡の説明板
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周辺
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真幡寸神社旧地
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油小路石碑(北向不動明王道標)
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近衛天皇安楽寿院南陵(新御塔)
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三如来石仏
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鳥羽離宮復元庭園
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鳥羽離宮跡復元図
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石造五輪塔(如法経塚)
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白河法皇・鳥羽法皇院政の地石碑
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冠石
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鳥羽天皇安楽寿院陵(法華堂)
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中宮塚(陵墓参考地)
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白河天皇成菩提院陵
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西行寺跡(火消地蔵尊)
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田中殿公園
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鳥羽離宮田中殿之跡石碑
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後宮塚(陵墓参考地)
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浄菩提院塚(陵墓参考地)
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春の山
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小枝橋
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鳥羽伏見戦跡石碑
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京都市平安京創生館
中京区丸太町通七本松西入の京都アスニー2Fにある
常設展として鳥羽離宮復元模型が見学できる
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