瑞泉寺
瑞泉寺とは?(基本データ)
- 名前
- 瑞泉寺(ずいせんじ)
- エリア
- 三条寺町・四条河原町
- ジャンル
- 建立・設立
- 1611年(慶長16年)
- 創始者
- 立空桂叔
- 宗派
- 浄土宗西山禅林寺派
- 山号
- 慈舟山(じしゅうざん)
- 本尊
- 阿弥陀如来
- 寺紋
- 五七桐(豊臣家家紋)
- アクセス
- 駐車場
- なし
京都市御池地下駐車場(徒歩約4分)
└普通車1,000台 30分毎250円/一泊(21:00~9:00) 1,500円
6:00~24:00
TEL:075-253-2760
その他にも寺の近くには有料駐車場多数あり - 拝観料
- 無料
- お休み
- お盆期間後や正月開けなど閉門日の場合あり
- 拝観時間
- 7:00~17:00
- 住所
- 〒604-8002
京都府京都市中京区木屋町通三条下ル石屋町114-1 - 電話
- 075-221-5741
- FAX
- 075-254-3538
- 公式サイト
- 慈舟山 瑞泉寺 ホームページ
瑞泉寺の地図
瑞泉寺のみどころ (Point in Check)
京都市中京区木屋町通三条下ル石屋町、三条通と木屋町通の交差点のやや南、江戸日本橋から続く東海道の京都側の終着点「三条大橋」のたもとにある浄土宗西山禅林寺派の寺院
開山は立空桂叔、山号の慈舟山(じしゅうざん)は高瀬川を往来する船にちなんだものといい、本尊は阿弥陀如来。
江戸初期までの鴨川の川幅は現在の河原町通りくらいまであったといい、同地は三条河原の中洲だった場所で、1611年(慶長16年)、豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)が豊臣秀吉の甥・豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため創建したと伝わっています。
この点、豊臣秀次は秀吉の実姉・日秀(瑞龍院)の子として生まれ、実子に恵まれなかった秀吉から一族として重用され、近江国を与えられて八幡城を築きますが、その後秀吉の側室となった淀殿との間に生まれた鶴松が幼くして亡くなると、既に55歳であり実子は望めないと判断した秀吉はその後継者として秀次を養子とし、関白の位を譲られて聚楽第に住することとなります。
ところがその後秀吉が57歳の時に淀殿が拾(のちの豊臣秀頼)を生んだことから事態は急変。
実子である拾を後継者としたい秀吉から次第に疎んじられるようになり、遂には1595年(文禄4年)7月に謀反の疑いをかけられて高野山へと追放され、ほどなく切腹し悲運の最期を遂げることとなります。
更に翌月8月2日には、秀次の一族である5人の子と34名の妻妾の計39人が三条河原の南西詰にて次々と処刑・打首とされることに。
処刑場には大きな塚が築かれて河原に埋められたといい、その塚の頂上には秀次の首を納めるとともに「秀次悪逆塚」と刻まれた石塔が置かれ、往来する人々に「畜生塚」として見せしめとされたといいます。
その後、塚は鴨川の氾濫などで次第に荒廃してしまいますが、それから16年経った慶長16年(1611年)、了以が高瀬川の開削工事している最中に、偶然荒廃した塚と石塔を発見。
これを哀れんで大いに心を痛めた了以は、浄土宗西山派の僧侶・立空桂叔に相談。
また前年の1610年(慶長15年)に亡くなっていた了以の実弟で医師の吉田宗恂が秀次に仕えていたとう経緯もあり、慶長16年が宗恂の一周忌にもあたることから、秀次の菩提を弔うために江戸幕府の許可を得て寺院を建立することとなったのです。
この際に碑面から「悪逆」の2字を削り、また新たに墓域を整備して墓碑を立てるとともに、その側に堂を造営。
そして寺名は京極・誓願寺の中興・教山が新たに秀次に贈った戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から寺号を取って「瑞泉寺」と命名されました。
以来現在まで400年間に渡って「秀次事件」によって死罪となった秀次と、連座した一族・家臣の菩提が供養され続けています。
境内入口に「豊臣秀次公一族終焉之地 旧三条河原跡」と刻まれた石柱が建ち、本堂に了以とその長男・角倉素庵の像が安置され、境内一番奥の南西角に了以が整備した墓域があり、秀次の墓を正面に、共に殺された子女たちの墓石がその周囲に並ぶ形となっています。
瑞泉寺の施設案内
境内
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山門
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豊臣秀次公之墓の石標
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看板
「太閤記の寺」との表示
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掲示板
ドラマで秀次を演じた役者たちについて紹介されている
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豊臣秀次公一族終焉之地の石標
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大日如来
山門入ってすぐ右
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資料展示
秀次肖像画ほか歴史的資料を展示
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参道
山門くぐってすぐ分岐で左が庫裡、右奥が本堂
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豊臣秀次公御一族墓所の案内板
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庫裏
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参道
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本堂
秀次とその一族の元々の塚が築かれていた場所に建てられたという
本尊・阿弥陀如来立像を安置
内部は通常非公開で外からのみ参拝が可能
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地蔵堂
本堂向かい
地蔵菩薩立像(引導地蔵)と一族と家臣達の御姿を写す49体の極彩色の京人形を安置
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前関白豊臣秀次公之墓の石標
墓域入口
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豊臣秀次と一族の墓域
地蔵堂の隣
秀次の御首を納めたと伝わる石櫃を奉じる石塔と、一族39名および秀次に殉じて自刃した家臣10名の合計49基の五輪石塔などがある
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秀次公の墓石
墓域正面
墓といわれる六角石塔とその下に秀次の首を納めたという石櫃
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石塔群
一族39名および秀次に殉じて自刃した家臣10名の合計49基の五輪石塔
その中には東北を代表する大名の一人・最上義光の二女で、秀次の側室となるために京に滞在し、まだ秀次の顔を見たこともなかったという駒姫のものも含まれている
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秀次公御一族の墓の配置図
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中島町の地蔵尊
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宝篋印塔
江戸中期の1740年(元文5年)の建立
秀次一族の供養のために建てられたもの
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関連
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善正寺
京都市左京区岡崎東福ノ川町、黒谷・金戒光明寺の西側に伽藍を構える日蓮宗寺院
1595年(文禄4年)に秀次が切腹するとともに秀次の一族がことごとく処刑され、夫で秀次の父・三好吉房も讃岐国に流刑となる中で、難を逃れた秀吉の実姉で秀次の母である智子(ともこ 1534-1625)が嵯峨野・村雲の地に庵(のちの瑞龍寺)を結んで秀次一族の菩提を弔ったのがはじまり
その翌年智子は出家して日秀尼(にっしゅうに)となり、更に1600年(慶長5年)には本圀寺より日鋭を招いて岡崎の地に善正寺を建立、寺号は秀次の法号「善正院殿高岸道意大居士」にちなんだもので、秀次の首塚ならびの日秀尼の墓所がある
また1624年(寛永元年)に開檀された「東山檀林」は涌泉寺(松ヶ崎檀林)、本圀寺求法院(求法院檀林)、常照寺(鷹峯檀林)、護国寺(山科檀林)、北真経寺(鶏冠井檀林)とともに日蓮宗京都六壇林の一つで、1872年(明治5年)の学制発布により廃檀されるまで続いた
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瑞龍寺(村雲御所)
滋賀県近江八幡市の八幡山の山頂にある日蓮宗寺院
1595年(文禄4年)に秀次が切腹するとともに秀次の一族がことごとく処刑され、夫で秀次の父・三好吉房も讃岐国に流刑となる中で、難を逃れた秀吉の実姉で秀次の母である智子(ともこ 1534-1625)(後に出家して日秀尼(にっしゅうに)となる)が嵯峨野・村雲の地に庵を結んで秀次一族の菩提を弔った
この際に後陽成天皇によって村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、および寺領1000石が与えられたことから、「村雲御所」と称される日蓮宗寺院で唯一の門跡寺院となり、以後代々皇女や公家の娘が貫首として迎えられた
寺は江戸時代に西陣(現在の堀川今出川付近)に移転した後、1788年(天明8年)の「天明の大火」で全焼、その後再建されるも1961年(昭和36年)、11世・日浄尼の代にかつて秀次の居城が置かれていたゆかりの滋賀県近江八幡市の八幡山城址に移されて現在に至る
豊臣秀次の命日にあたる7月15日には、瑞龍寺住職によって八幡山で供養が行われるという
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嵯峨村雲別院(瑞龍寺跡)
京都市右京区嵯峨の二尊院の北の高台にある霊苑
1595年(文禄4年)に秀次が切腹するとともに秀次の一族がことごとく処刑され、夫で秀次の父・三好吉房も讃岐国に流刑となる中で、難を逃れた秀吉の実姉で秀次の母である智子(ともこ) 1534-1625)が嵯峨野・村雲の地に庵を結んで秀次一族の菩提を弔った瑞龍寺があった場所で、現在は霊苑となっている
入口には嵯峨村雲別院の石標が立てられている
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高野山金剛峯寺
和歌山県伊都郡高野町にある、弘法大師空海が開き世界遺産としても知られる真言宗の総本山
境内の主殿には秀次が切腹したとされる「柳の間(秀次自刃の間)」がある(ただし建物自体は1863年(文久3年)に再建されたもの)
また奥の院には織田信長や武田信玄などの戦国武将や有名人の墓があることでも知られているが、豊臣家墓所もある
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周辺
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三条小橋
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三条通
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木屋町通
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元立誠小学校
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瑞泉寺の主な年間行事・カレンダー
年中行事
- 3月彼岸
春季彼岸法要
- 4月第2日曜
瑞泉寺の花まつり
- 8月お盆
盂蘭盆会
- 9月彼岸
秋季彼岸法要
月並行事
- 毎月1回日曜
朝ユガ
朝の瞑想会